暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

雨の日


こないだの土日は、ぱっとしない天気でした。

日曜日は午前中から降り始めて、そこまで本降りではない、だけど傘をささないと歩けない、細い雨がシトシト降っていました。


昨年長靴を買ってからは、雨の中歩くのをそこまで難儀に思わなくなりました。

用があって外へ出たのですがその日は気温もちょうどよくて、濡れてしっとりとした住宅街の中、良い散歩になりました。


ところどころで桜が咲いていました。

人家の塀のすぐそば、公園などで、政党のポスターや道路標識と景色をともにしていたけど、それはそれで趣があってよかった。


個人的に、桜はそれ単体で見るよりも、通学路でとか、民家のそばで、とか、人の生活に沿うようにして咲いているのを眺めるのが好きです。


わぁきれいに咲いてる、と思うのとは別に、強い懐かしさを呼んでくるのが桜で、それがこの植物の特別なところだなぁと思います。

(こういうのを日本人の心象風景というのかな)



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この記事のタイトルを考えるなかで春の雨、と書いたりしてみて思い出したけど、そういえば「はるさめ」は春雨と書く。

中華料理に使う、水で戻せる気軽な食材のイメージしかなかったけど、意外と雰囲気のある名前だったんだな。



人ごみと仕事中と


イライラすること、しないことの話です。


人ごみは平気なたちです。

前の人がゆっくりならあえて合わせて歩いてみたりします。暇なのかと言われそうだけど、そういうことをする余裕を持って出かけます。最短の動きでないと間に合わない予定の組み方は苦手です。


平日行き帰りの満員電車も、体力の消耗に比べたら精神的なストレスは少ないように思います。

社歴が浅いころは、電車が遅れると「あぁ、間に合わないかも、どうしよう」ととても気ぜわしく嫌な思いをしていたけど、いまは、電車が遅れてるんだから仕方ないでしょ(寝坊ならまだしも)、と思って本の虫になっています。


子供の頃読んだ黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』のあとがきか何かで、車だったか、人ごみだったか、そういった類の話を書いていて、「人それぞれ、進みたい方向もスピードも違うから、仕方ない」というような意味のことを言ってました。


(この記憶、勘違いかもしれない。そのあたりを読んでいたときに誰かがそんな話をしてるのを聞いただけかもしれません。こういう曖昧な記憶っていっぱいある)


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ただ、仕事ではカリカリイライラするんです。むちゃくちゃに。


良くないよなぁとは思っています。

自分のコンディションによって受け流せたりたてついたりする。

つまりほとんど相手のせいじゃないのに、それはわかっているのに、カチンとくるのは止められない。




意識はできているのに、不思議だなぁと思います。


ということは、おそらく、私が人ごみでイライラしないのは、「人それぞれ、進みたい方向もスピードも違うから、仕方ない」ことを理解して、それを活かしているからではないのです。

ただ人ごみではイライラしにくい性質なだけです。


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きのうは初めて、卵とマカロニ入りのポテトサラダを作りました。おいしかった。

潰したじゃがいもに砂糖を多めに混ぜてしまったので、仕上げの胡椒は多めに振りました。


出勤の風景


朝、家を出て、カバンからスマホを取り出しました。

前を歩く女の人を同じようにカバンからスマホを取り出しました。
私は次に、歩きながらイヤホンを耳につなぎました。
ふと見ると女の人も同じようにイヤホンを差し込んでいました。

あまりにもお互いの動きが連動していたもので、

もしかしたら聴いてる曲も同じだったりして、
と思いました。


これは確かめようがなかったけど、そういう、なんの文脈もない偶然はけっこうあります。
偶然ということだけがすごいだけの些細な一致。(良い例が浮かばない…)

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まだ寒々しい日が続きますが、周りの人の装いが春らしくなってきています。
朝晩の冷えを思うとダウンコートだって全然構わないと思うのに、おしゃれに敏感な人はもう着ない。
私はトレンチコートを持っていないので(春になったらどうしよう、昨年はどうしてたっけ)、まだ冬のコートでしのいでいます。こないだ少しでも春らしくと思いついてマフラーをしないで出かけたら、案の定凍えました。

見ていると、コートが薄手な人も何かしら首に巻いている人が多いです。

きょうは冬のコートで、巻物もして、パンツだけ七分丈で出かけました。
なかなかちょうどよくて、
あ、これでいこう
と思いました。

一つスタイルを見つけると落ち着きます。

本を読んで


坂口安吾を読んで思ったのは


どうしたんだろうこの人は、何でそんなに悲壮でやさぐれていて、もうその状態で悟りきっちゃってるんたろう

一度学生のころに読んだときは、少し違った印象だった。
刺激的で、爽快で、ある視界が開けたような感覚があった。うまく言えないけど、あぁ、こういうふうに構えるのもありなんだ、と、ある種楽になったのを覚えている。

今回だってその感覚を思い出したので、別に前にはとても印象がよかったのが180度変わってしまっていた、というわけじゃない。
ただ、前よりも、極端だなぁと感じた。

それに続いて思ったのは
一人の人間に、この人の著作を必要とする年齢やタイミングは一度くらいあるだろうな、それが私は学生のときだった。
いまと比べて学生の時はどんなときだったか。自信がなかった。気楽だけど漠然とした不安があった。

特定の時期、極端な心境のときに必要とする文学がある。

それでは、それを書いた人は。
その考えは、生き方は、多かれ少なかれ極端でないわけがないよなぁ、と思った。



ある時代、病気になったり、自ら命を絶ったりした文筆家が割といる。

昨年、夏目漱石の妻というドラマを見ていて、あぁ、あんなにタバコを吸って、背中を丸めて、畳に直に座って、長い時間机に向かってものを書いているなんて、絶対体によくない、ストレッチやヨガをやって背筋を伸ばしてほしい、と余計なもどかしさを感じた。
(ちなみにこの話を母にしたら、まぁでもあの時代の人はいまより散歩をしていたようだね、と言われてこのモヤモヤは少し解消した)

名作は作家が生み出したもので、その思想は生まれと育ち、社会の状況、生活習慣によって作られた。



この人の書いたものが好きだ、そう言えるものに出会うのはとても満たされる。
時間が経てばそれが変化することがあり、その理由に思いをはせるのもまた中身のあることだ。




坂口安吾を読んで、学生のころは感じなかったけど今気づいたことは、その文章のスピード感。

この日記は、その雰囲気を真似してバーっと直感的に言葉を選んだのですが、とても書きやすかった。

いつも、えーと、えーと、と散歩するように書いているので、そこらへんの石ころ、小さなニュアンスの違いに足を取られていたようです。
なるほどね。

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カレンダーは3月に


最近、通勤中に本を読みます。

電車はただ乗っていると暇だったり、どこを見ていればいいか迷ったりしますが、本を読んでいるともうあっと言う間です。

時間の感覚を忘れて読んでいるので、乗り過ごさないようにだけ注意して。

停車するたびにパッと顔を上げて、まだだ、と安心して目線を戻します。


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2月に4月のような陽気の日があって、おぉ、もうだんだん春になってくんだな、と無意識に思ってしまったようで、まだ去らない朝晩の冷えを、前より厳しく感じます。


こちらの意識はついせっかちになるけど、季節は自分のペースでゆっくり変わります。


陽気

 

きょうはお天気が良く、暖かかったです。
「朝は寒いですが、日中はぽかぽか陽気になるでしょう」
と予報を聞いても、終日社内で仕事をしているのでその恩恵にあずかれない。きょうはあえて外に出る用事を作って外気にあたってきました。次の季節を感じて、すがすがしい気分になりました。

先週から、起床時にめまいが起きるようになりました。
眠い中、意を決してムクッと起き上がり、サッとベッドから床に降り、洗面所に向かおうとしたら、ぐるぐる。
はれ、と思いながらベッドに手をついたり座りなおしたり。
それですぐ回復はします。

疲れているせいだと思いますが、気持ち悪いなと思って人に相談したら、「水分をとったらよいのでは」とアドバイスをもらい、いつもより数割増しのお茶・水を飲んでみたのが一昨日。そうすると昨日、きょうは大丈夫でした。

本当に水分が効いたのかもしれないし、
それをきっかけに意識せずして随所で無理を控えたのかもしれない。

 

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(8年使ってるマグカップ)

 

このブログを始めてよかったことの一つは、
感じたことをポッと出して眺めてみる、
そういう場ができたことです。

そのままの形で、絵や文で好きに表せる。

人に話そうと思ったら、当たり前のことですが、伝わるように話す必要があります。
(何の形もしていない粘土のかたまりをポンと出しても、「これなに?」となってしまうので、いくらかこねて形にしないといけない。)

頭の中にあるもとの状態に近い形で表す、ということが、自力で自分を回復させているようです。

これからも、他にもそういうふうな方法があるかもしれない、そんな心持ちでいたいと思います。

 

練習

 

たとえば自分がこんな姿だとします。

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みんなそれぞれ違う形で、
前に進んでいきますが

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自分だけつっかかることがあります。

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こんな形だから別に不思議ではないのですが

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それでも驚くし、落ち込むこともしばしば。



最近、ふとした出来事から

一通りのことはできるようになったから
(ご飯を作ったり仕事をしたり駅で落し物を拾ったら駅員さんに届けたり)
自分が本来どんな形をしているか、
ふだんは忘れているな
と思いました。

ぶつかって「いてて」となるのは
できないことに向き合っているときです。

新しいことに取り組んでいるとか
これまでなんとなく避けてきたけどいよいよ避けきれなくなって重い腰を上げているか。

形を踏まえて、それをわかっていれば
準備のしようもあるというもの。

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(助走をつけて飛び越えたり
 カニさん歩きをして抜けたり)

形自体は面白いからそのままで
やり方を考える。
形を変えようとするよりそのほうが気分が良い。









<こういうことである>と単純な図やたとえ話に持っていけたら、問題自体はまだ解決しなくても、「なるほどね」と一息つけたりします。