暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

人前で話す


人前で話す機会がありました。

もともとあがり症で、社会人になって10年近くになる今でも緊張します。

そのときが近づくにつれて、心臓の音が大きく聞こえ始めます。
こんなの緊張なんかすることじゃないのに、そう思っているのに、脳はそう判断していないんだな。
そう考える余裕があるひとときがあって、そこからもう一段階。喉元まで心臓がせり上がって来たようになって、心臓の音が、耳元でバクバク聞こえます。
隣の人に聞こえてそう。
いや他人の鼓動が聞こえたなんて聞かないからきっと大丈夫だろうけど。
いやでもこれが自分にしか聞こえてないなんて信じられない
と思うくらい、和太鼓のように強くはっきりと鳴っていました。

なんとか喋りおおせて、一息ついて。
緊張しきりでも、こちらを向く面々を左から右に見回したこと、自分の声が聞こえていたことは変化だと思いました。

よく、にんじんとかかぼちゃが並んでると思えば…
とか言うけど、視線を持った面々を無生物と捉えるのは、とてもじゃないけど無理です。
たまに巡ってくる機会で、青くなったり開き直ったり、やってみて少し開けた気がしたりしながら取り組んでいます。

場数を踏んでいなくても緊張しない、そういう人もいる中で、苦手な性格にあたってしまったんだな、と折に触れて思います。



自分がなんの気もなく簡単にやっていることが、他人には難しいことだったりする。特技はそういうものだから、それに自身で気づいて、それを伸ばすことに尽力すればいい、とどこかで聞くか読むかしました。

それぞれ向いていることをやれば、皆が機嫌よくやれて、適材適所で仕事の質を押し上げる。全体にとって幸せなことのように見えます。

だけど実際は、得意寄りなことと苦手寄りなこと、どちらもやっている人が多いと思います。

苦手なことは、実はストレスを伴うだけではなくて、充実感を得やすいように感じます。
どんな一歩でも自分を褒めてやれるからです。自力で、それまでは見上げるだけだったステージに登ろうとしている。そこには冒険と、すがすがしさ。

私は人前で話すことが苦手なので、そこに自分中心のドラマがあり、発見があり、楽しいとは言えないながら「有意義な経験をした」感を得ます。


あえて苦手なことをやるべきだとは思わないけど、憂鬱なだけでなくて、面白みもあるんだなぁと思います。
「イヤだー」と強く感情的になって言いたくなることは、仕方なくでもやってみると、やっぱりそれなりに返ってくるものがあります。
憂鬱になったり焦ったり疲れたり、その嵐が過ぎてみないと分からないことだけど。

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とりあえずの乗り切り


仕事をしていて、なかなか結果や見返りが得られないときは、その仕事自体を好きになってしまえば楽ですが、それが難しいときは、自分の頭の中だけで仕事を何かに例えることが一つの方法だと思います。

世間の大人のなかには、真正面から仕事に取り組んで、結果が出るまでの苦難は当然としている人もいそうだし(強い)
また他の人は仕事終わりのビール頼みで乗り越えているかもしれない。
上に書いた方法はどちらかというと「逃げ」だけど、別に周りの士気を下げるわけでもないし、実質的にエスケープするわけでないし、それで落ち着くものがあるなら手軽で良いと思う。

ところで私はあまりお酒を飲まないので
「飲まなきゃやってられない」
は全然わからないのですが
「食べなきゃやってられない(お菓子を)」
に置き換えれば、わかる!と最近思いました。

仕事が立て込んでいたり、様々な理由で気持ちが低迷しているとき、お菓子があるだけで、だいたい全部なんとかなるような、見通せたような気持ちになることがある。

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近頃なかなかまとめて絵を描く時間がないので、ちょっとずつ描いています。
描いているのはある植物の、花が咲く前の状態のスケッチですが、花が咲くまでに完成させたい。

いつになるかしら。

雨の日


こないだの土日は、ぱっとしない天気でした。

日曜日は午前中から降り始めて、そこまで本降りではない、だけど傘をささないと歩けない、細い雨がシトシト降っていました。


昨年長靴を買ってからは、雨の中歩くのをそこまで難儀に思わなくなりました。

用があって外へ出たのですがその日は気温もちょうどよくて、濡れてしっとりとした住宅街の中、良い散歩になりました。


ところどころで桜が咲いていました。

人家の塀のすぐそば、公園などで、政党のポスターや道路標識と景色をともにしていたけど、それはそれで趣があってよかった。


個人的に、桜はそれ単体で見るよりも、通学路でとか、民家のそばで、とか、人の生活に沿うようにして咲いているのを眺めるのが好きです。


わぁきれいに咲いてる、と思うのとは別に、強い懐かしさを呼んでくるのが桜で、それがこの植物の特別なところだなぁと思います。

(こういうのを日本人の心象風景というのかな)



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この記事のタイトルを考えるなかで春の雨、と書いたりしてみて思い出したけど、そういえば「はるさめ」は春雨と書く。

中華料理に使う、水で戻せる気軽な食材のイメージしかなかったけど、意外と雰囲気のある名前だったんだな。



人ごみと仕事中と


イライラすること、しないことの話です。


人ごみは平気なたちです。

前の人がゆっくりならあえて合わせて歩いてみたりします。暇なのかと言われそうだけど、そういうことをする余裕を持って出かけます。最短の動きでないと間に合わない予定の組み方は苦手です。


平日行き帰りの満員電車も、体力の消耗に比べたら精神的なストレスは少ないように思います。

社歴が浅いころは、電車が遅れると「あぁ、間に合わないかも、どうしよう」ととても気ぜわしく嫌な思いをしていたけど、いまは、電車が遅れてるんだから仕方ないでしょ(寝坊ならまだしも)、と思って本の虫になっています。


子供の頃読んだ黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』のあとがきか何かで、車だったか、人ごみだったか、そういった類の話を書いていて、「人それぞれ、進みたい方向もスピードも違うから、仕方ない」というような意味のことを言ってました。


(この記憶、勘違いかもしれない。そのあたりを読んでいたときに誰かがそんな話をしてるのを聞いただけかもしれません。こういう曖昧な記憶っていっぱいある)


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ただ、仕事ではカリカリイライラするんです。むちゃくちゃに。


良くないよなぁとは思っています。

自分のコンディションによって受け流せたりたてついたりする。

つまりほとんど相手のせいじゃないのに、それはわかっているのに、カチンとくるのは止められない。




意識はできているのに、不思議だなぁと思います。


ということは、おそらく、私が人ごみでイライラしないのは、「人それぞれ、進みたい方向もスピードも違うから、仕方ない」ことを理解して、それを活かしているからではないのです。

ただ人ごみではイライラしにくい性質なだけです。


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きのうは初めて、卵とマカロニ入りのポテトサラダを作りました。おいしかった。

潰したじゃがいもに砂糖を多めに混ぜてしまったので、仕上げの胡椒は多めに振りました。


出勤の風景


朝、家を出て、カバンからスマホを取り出しました。

前を歩く女の人を同じようにカバンからスマホを取り出しました。
私は次に、歩きながらイヤホンを耳につなぎました。
ふと見ると女の人も同じようにイヤホンを差し込んでいました。

あまりにもお互いの動きが連動していたもので、

もしかしたら聴いてる曲も同じだったりして、
と思いました。


これは確かめようがなかったけど、そういう、なんの文脈もない偶然はけっこうあります。
偶然ということだけがすごいだけの些細な一致。(良い例が浮かばない…)

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まだ寒々しい日が続きますが、周りの人の装いが春らしくなってきています。
朝晩の冷えを思うとダウンコートだって全然構わないと思うのに、おしゃれに敏感な人はもう着ない。
私はトレンチコートを持っていないので(春になったらどうしよう、昨年はどうしてたっけ)、まだ冬のコートでしのいでいます。こないだ少しでも春らしくと思いついてマフラーをしないで出かけたら、案の定凍えました。

見ていると、コートが薄手な人も何かしら首に巻いている人が多いです。

きょうは冬のコートで、巻物もして、パンツだけ七分丈で出かけました。
なかなかちょうどよくて、
あ、これでいこう
と思いました。

一つスタイルを見つけると落ち着きます。

本を読んで


坂口安吾を読んで思ったのは


どうしたんだろうこの人は、何でそんなに悲壮でやさぐれていて、もうその状態で悟りきっちゃってるんたろう

一度学生のころに読んだときは、少し違った印象だった。
刺激的で、爽快で、ある視界が開けたような感覚があった。うまく言えないけど、あぁ、こういうふうに構えるのもありなんだ、と、ある種楽になったのを覚えている。

今回だってその感覚を思い出したので、別に前にはとても印象がよかったのが180度変わってしまっていた、というわけじゃない。
ただ、前よりも、極端だなぁと感じた。

それに続いて思ったのは
一人の人間に、この人の著作を必要とする年齢やタイミングは一度くらいあるだろうな、それが私は学生のときだった。
いまと比べて学生の時はどんなときだったか。自信がなかった。気楽だけど漠然とした不安があった。

特定の時期、極端な心境のときに必要とする文学がある。

それでは、それを書いた人は。
その考えは、生き方は、多かれ少なかれ極端でないわけがないよなぁ、と思った。



ある時代、病気になったり、自ら命を絶ったりした文筆家が割といる。

昨年、夏目漱石の妻というドラマを見ていて、あぁ、あんなにタバコを吸って、背中を丸めて、畳に直に座って、長い時間机に向かってものを書いているなんて、絶対体によくない、ストレッチやヨガをやって背筋を伸ばしてほしい、と余計なもどかしさを感じた。
(ちなみにこの話を母にしたら、まぁでもあの時代の人はいまより散歩をしていたようだね、と言われてこのモヤモヤは少し解消した)

名作は作家が生み出したもので、その思想は生まれと育ち、社会の状況、生活習慣によって作られた。



この人の書いたものが好きだ、そう言えるものに出会うのはとても満たされる。
時間が経てばそれが変化することがあり、その理由に思いをはせるのもまた中身のあることだ。




坂口安吾を読んで、学生のころは感じなかったけど今気づいたことは、その文章のスピード感。

この日記は、その雰囲気を真似してバーっと直感的に言葉を選んだのですが、とても書きやすかった。

いつも、えーと、えーと、と散歩するように書いているので、そこらへんの石ころ、小さなニュアンスの違いに足を取られていたようです。
なるほどね。

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カレンダーは3月に


最近、通勤中に本を読みます。

電車はただ乗っていると暇だったり、どこを見ていればいいか迷ったりしますが、本を読んでいるともうあっと言う間です。

時間の感覚を忘れて読んでいるので、乗り過ごさないようにだけ注意して。

停車するたびにパッと顔を上げて、まだだ、と安心して目線を戻します。


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2月に4月のような陽気の日があって、おぉ、もうだんだん春になってくんだな、と無意識に思ってしまったようで、まだ去らない朝晩の冷えを、前より厳しく感じます。


こちらの意識はついせっかちになるけど、季節は自分のペースでゆっくり変わります。