暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

国語力が欲しい

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国語力ってなんだろう。
私は「国語力がない」と言われることが多い。どういう点を指して言われているのかは、なんとなくわかる。

本を読むのは大好きで、小さなころからかなりの読書少女だったけど、それと国語力とは関係ないらしい。

思えば、小学生のころ作文が苦手だった。
とにかく“うまく書けない”という意識があり、今日はここに行って、どんなことをしました、こんなことを思いました。ということを綴るのが、恥ずかしくて嫌いだった。

小学5年生のとき、犬を飼い始めた。
ずっと犬を飼いたいと思っていたので、それは嬉しかった。
その頃書いた作文の、締めの文章が以下。
「お父さんは、『この子(犬のこと)、ほんまに素直でいい子やねえ』と言います。私は犬を飼ってよかったなあと思いました。」
これを読んだ母から、「なんで、犬飼ってよかったと思ったん?」と突っ込まれた記憶がある。
私の気持ちは、
1.犬を飼うことができて私は嬉しい
2.お父さんが、犬のことを気に入って褒めている
3.お父さんが満足そうにしていることにホッとする、私は余計に嬉しい
こういう段階を踏んで説明されるべきだった。

「お父さんが犬を褒めた」→「犬飼ってほんとよかった!」という飛躍甚だしい文章になってしまったのは、犬可愛さに浮かれていたからだろうか…。

その当時だって、焦らないで自分の気持ちに向き合えば書き直せたはずだけど、作文の出来に関して非常にナイーブだった私は「やっぱり作文嫌いだ」と自信をなくして背を向けてしまった。

(母のした突っ込みは批判などではなくて、当然の疑問を口にしただけだと思う。自分でも「この文章なんか抜けてない?」と呆れる)

国語力とは、「聞き手・読み手が不便を感じないような時間内に伝えられる能力」のことだ。

文章なら、何度も読み返すことなく理解ができること。
話なら、一度聞いてすらすらと頭に入ってくるかどうか。まあ、一二度質問をして理解できれば許容範囲か。

「時間をかければできる」ことに、能力やセンスがあるとは認められない。



○○力、という言葉は、「それがあるかないかの二択」というニュアンスを含む気がして、苦手だ。

昔、父が「どんくさいのはいいことだ」と言った。
人よりゆっくり、考えながらやるのがいいのだと。

学生の身分には成績は大事。
でも、社会人になったら、「投げないこと」これだけで人としてはとりあえずやっていける。

人より抜きん出た「○○力」を活かして働けたら、それは素晴らしくて何よりだけど…。