暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

長いのでお時間のあるときに

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「理解力がない」のは罪だろうか。


仕事では、はつらつとしてよく気が回る人が重宝される。

もしそこまで機敏でなくても、いつも自分のやれる精いっぱいで臨んでいる人の姿勢は伝わってくる。そんな人柄にも周囲は好感を持つ。

ここまではわかる。職場を選ばず、また職場というシチュエーションに限らず、こんな人の周りに人は集まる。


逆に、攻撃の対象となるのは俗に言う「話が通じない人」「理解力の乏しい人」。

一緒に仕事をするときに困るから、当然かもしれない。

私は頭の回転のスローなほうなので、どうもこの手の話に相槌が打てない。ともすれば自分のことを言われているようで肩身が狭い。

話が通じにくいけど、必死で仕事してる人を私は知っている。不真面目よりもよっぽどいい、と思う。(真面目ならOKというわけじゃなく、必死さゆえに落ち着いて判断できない等、その人はその人で超えていかなきゃいけないものがある)


ぱっと見内容が伝わってこないメール。よく読んで、ここ数週間のその人とのやりとりを思い出せば、じんわり浮かび上がるように理解できる。

一般に、これが良くない点だろう。自分に課せられた処理を終え次へ廻した仕事がわかりづらく、謎解きレベルなんて。仕事に寄り道、遠回りはいらない。


いっぽう、私にとっての天敵は「怖い人」だ。ときに相手の落ち度をはっきりと何度も強くたしなめることをいとわない人だ。相手の言うことがいかに的を射ていようが、こちらを思っての指導であろうが、むげな口のきかれ方に対する憤りと恐怖で防御体制に入ってしまって考えられない。相手の話に相槌を打ち、何度も謝るばかり。

私の打たれ弱さに問題があるとも思う。それにたいてい後から相手の言い分を肯定したり、心から申し訳ない気持ち・感謝する気持ちになる。けれど、すぐに受け入れられない言葉のぶつけ方、これも立派な「遠回り」ではないか。


世間で敬遠されるのは理解力の足りない人。私が苦手に思うのはこちらの理解力を奪う人。