小学校6年生のとき、二人でよく歌を作っていました。どちらかが書いた歌詞に、もう片方がメロディをつける。そのうち振付まで考えて、二人で歌って踊っていました。
中学校に上がってからもしばらくやっていましたが、なんとなく、「恥ずかしいね」という感じになってやめました。
※結婚式のスピーチのために、
友達との思い出を振り返る週間でして、
そのイラストを描いていますが、
メインの文章は全然関係ないことを書きます。
文章を書くのは好きです。
好きですが、ひとまとまりの文章を書くのにはいつも苦労しています。
どこかで道を間違えるのか、どうも思っているところへ出てこれなくて、迷子になり、結論へたどり着くためにどこまで戻ればいいのかもわからずに、ふうふう言っています。
論理的に話を展開するのが苦手で、また自分が書いた一つ一つの言葉の発するイメージに捕まって引きずられ、思わぬ方向へ進んでいることが多いのです。
以上のことは自覚していたはずなのですが、ブログを続けるうち、無意識に「言葉には限界がある」と思うようになっていました。どれだけ推敲しても、頭の中にある元々のニュアンスを誠実に表現することはまず無理だ、と。
言葉って万能じゃないな、まずイメージがありきで、言葉はそれを外に向かって表すための道具なんだもんな。限界があるんだ。
ところが、最近買ったとある本の、その文章の滑らかさに驚きました。文章が生き物のようだと思いました。
言葉(字面)が皮になり、意味がその血肉となって、意味が伝わってくる手ごたえは、生き物が呼吸をするのを見ているのと同じくらい、自然なものでした。
小説でも論説文でも、読んでいると文章の奥に著者の存在を感じることが多いですが、文章そのものが生きているように、意味が当たり前のように言葉をまとい、くびを傾げたり伸びをしたりしている趣がありました。
推敲のあとが見えない、というのはやっぱり鍛錬のたまものでしょうか。何かしら心づもりをもって書いていれば、言葉、文章に天井があるように感じなくなるのでしょうか。
呼んだのは柳田国男さんの本でしたが、どちらかというと、私にとっては難しい(読みにくい)文体なのです。
ただ、ちょっと我慢して読んでいると、さきほど書いたように、ときおり生き物の息遣いに触れるように鮮やかに意味が滑り込んできてはっとする、それを繰り返すたびに、何かの生き物を相手にしているような、何とも言えないときめきがあって。あぁ、こんな文章が書けたらいいなぁと思いました。
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蛇足かと思いますが、
ここまで生き物生き物と書いてきたのは、私の中では、表面がかたくぼこぼこしている巨大な爬虫類のイメージです。それによじ登って、たまに振り落されたりしています。