暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

おせち料理の話・ご挨拶


きのうは年末から年明けまでの食材をスーパーでまとめ買いした。

元旦はお雑煮だけをやる予定で、あと黒豆など出来合いのものを少し買おうかな、という気でいたけど、思っていたより高くて尻込みした。スーパー、いつもお手頃なのに、季節のものはやっぱり同じようにはいかないなぁ。(結局600円くらいのかまぼこだけカゴに入れた)

野菜売り場ではいつも見かけない三つ葉が並べられていたりして、「そうか、三つ葉をお雑煮に浮かべたりするんだよね。いい風味するだろうなぁ」と手に取りそうになったけど、年が明けたら両実家への挨拶など外出が続き、余っても消費できない、もったいないと踏みとどまった。

季節のことは、ちゃんとやりたいけど、お正月は難しいなぁと思う。とにかく余ってしまう。豆やら煮物やらたくさん炊いて、お客さんが来るでもなく、旦那さんと二人。おせち料理は何日もかけて食べたら良いものだけど、少しずつしかなくならない。メインディッシュとしてドーンと一度にたくさん出せるならいいけど、小皿料理的なものばかり。昨年は何品か、傷んでダメにしてしまった。

小さな世帯向けのおせち料理キット、材料を少量ずつセットして売られてるようなものがあったらいいな。それなりに品質や産地がちゃんとしている食材の詰め合わせだったら、多少高くても買うなぁ。で、それぞれの分量に合ったレシピもついてると嬉しいな。(どんどん注文が増えてゆく)

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今年も一年ありがとうございました。このブログのおかげでお絵描きが続けられて、また読者登録させてもらっているブログを読んで、気づきや元気をもらっていました。

また来年も変わらずお会いできたら嬉しいです。

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これは平常運転


今日は、昨年から読んでいた漫画の最終巻をKindleで購入した。ラストが切なく、思わずホロリとし、そしたら止まらなくなって、しばらくシクシク泣いていた。

ほのぼのとした優しい漫画で、なんとなく話の閉じ方も見当がついていた。それでも涙を誘われたのは確かだけど、そんなに、何度も鼻をかむほど泣いたのは、別の理由だった。日々の納得いかないこと、思うように評価されないことなど、逐一向き合えずに心の中で取り急ぎ押入れに放り込んでいることが溢れてきた。

生活の中に改善すべき病理があるというよりは、ただ自分が子供っぽくいちいち小さなことで傷ついているせいだと思う。

恥ずかしいけど、ときどきこうなる。こうでないと解放できないものがある。側から見たら心配な光景だけど、泣いている間、気持ちは少し爽快だった。悪いものを飛ばした感じで、あとはケロリとしていた。


子供のころ、焼き魚の赤身が苦手だった。例えばぶりの照り焼きの、皮の際の赤い部分は皮ごと残し、白身だけ甘辛いたれに浸して食べていた。

神経質に赤身を白身からこそげとる様子を、父は呆れながら眺めて、「大人になったらそんなのは面倒だから、きっと一緒に食べてしまうようになるわ」と笑っていた。

はたして、近頃は必ず赤身をこそげとるということはしなくなった。面倒ということ以上に、白身と赤身の味の違いを以前ほど感じなくなってきたのである。

こんなふうに、ちよっとしたことは構わずまるっと飲み込めるようになりたい。

でも鈍感になりたいのではない。落ち込んでも、開き直ったり立ち直ったりする技術があればいい。

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この落描き中、食卓に何を並べようか考えていて、ピカチュウはケチャップが好物らしいと知った。(「サトシのピカチュウ」だけかもしれない)ネットで検索したら、ピカチュウがケチャップを抱えて歩いているアニメ画像が出てきて、それは可愛かった。


ガーリックトーストの失敗について(追記)

前のブログで、ガーリックトーストの出来がいまいちだったのを、なんだかイングリッシュマフィンのせいであるような書き方をしてしまった。

実際の原因は、すりおろしたニンニクの量が多すぎたことにある。

昨年旦那さんが喜んで食べてくれたのを覚えていて、張り切って沢山ニンニクをすりおろしてしまった。また、バターが今ひとつ溶けきらず、混ぜた時にムラができたせいでもある。(すりおろしニンニクと溶かしバターを混ぜて、パンに塗って焼くレシピを使った)

なんか「イングリッシュマフィンが使えん」みたいに響いてたら嫌だなと思って書きました。

実際の食べた感触としては、青臭く、むせ返るほどのニンニクがグワっと来て、間をおいてイングリッシュマフィンそのもののおいしさがやって来る感じだった。(「わたしもいるんやで〜」って感じで)

まあ合う合わないで言ったら、やっぱりバケットの方が適役という印象。マフィンはそれ自体の味が素朴ながらしっかりしてるから、粒子の細かなニンニクとケンカしていたように思う。

でももしかしたら、ニンニクを擦りおろさずにスライスして、挟むかのせるかしたらよかったのかもしれないしな。わからないな。


こういう「かもしれない」がときどき台所で発生するけど、突き詰めることはなく流れていく。料理研究家はこういう部分を追究するんだろうな。材料をたくさん用意して、分量や順序などを変えてみて。

それで生まれた最善のパターンを、私はレシピサイトや料理本を通じて日々拝借しているんだな。

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(中程のページはすぐ閉じてしまうので、調味料の配合をある程度頭に入れてからとりかかる。でも不安になって結局また開く)


クリスマスの食卓


一年の区切りを目前にして過ごすこの時期は、特有の高揚感がある。クリスマスと歳末、一連のこの盛り上がりは、宗教はブレブレだし、商売と一体化していて、由緒も厳粛もない。でも、この拠り所のない高揚がいつも楽しみだ。今年も盛り上がってるな、押し寄せて来たな、と感じることがなぜか温かく、わくわくする。

クリスマスの食卓は年々シンプルになっている。あれもこれもとこしらえて、パーティーらしい食卓にするのは楽しいけど、やりすぎると疲れる。宴の席に着く前に完全燃焼していたらどうしようもない。今年は現実的に、無理のないようにと、前の晩にも出したおかずを素直にまた並べた。

ガーリックトーストだけは失敗したので、心残り。またリベンジして、というかしばしば作るようにして、作り慣れたい。(イングリッシュマフィンを使ったらあんまり美味しくなかった。やっぱりフランスパン的なやつじゃないとダメなようだ)

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(クリスマスケーキを食べた後のお皿。おいしかった、ごちそうさまでした。)

ケーキだけは買ったほうが安い。日頃からお菓子作りをやらないので、作ろうとすると材料と手間がすごい。


読書・パソコン購入のこと


久しぶりにKindleで小説を買った。同じ小説家のホラー小説を二冊。きのうの日曜日にどちらも読んでしまった。

家に一人だったので、ホラーなんか読んだらダメだと思ったけど、読み始めたら止まらなくなって、サンプルを読み終わったあと迷わず購入。

夢中で読んでいたら、床がピシッと軋んでビクッとした。おおお…。よくあることだけど、よりによって、いま。また、途中でトイレに行ったら、扉を閉めるのをためらった。ちょうどトイレで忌まわしきものに襲われるシーンを読んでるところだったから。でも扉を開けたまま用をたすのは習慣上抵抗があるし、半開きのドアを見ながらというのも何か別の怖さを感じ、閉めた。(鍵もちゃんとかけた)

読書が好きと言いながら、普段常に新しいものを読んでるわけではないけど、たまにこうして時間が取れた日はタガが外れて、ばばばっと買ってしまう。時間があって読みたいと思っている限り、続けて。Kindleはワンタッチで買えて、実際の本と違って場所をとらないからついついハードルが低くなる。

特に漫画だと一冊読むのに20分もかからないから、複数巻出てる続き物とかだと、あぁ続きが気になる、次、はい次、と一日で何冊も買ってしまうということが起こる。(だいたい三冊くらいで我に返るけど)

でもたまにだし、楽しいのでよしとする。

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近々、パソコンを買い換える予定だ。パソコンは、なかなか気軽にヒョイッと買えなくて、のびのびになってしまっていた。もう一年以上前から買う買う言っている気がする。

まずパソコンをどんなことで使うのか確認し、メモリだのなんだのと、それに必要なスペックを知る。また、ネットに溢れるレビューやブログ読んでなんとなくイメージを持ったり、サイズ感を確かめる。

で、ヨシ、決めた。次出かけたら買う。と決意したところで、あいにく予定が詰まってて少し間が空いたりするすると、「ええと、なんだっけ」と初めからやり直しになる。スペックとかはメモっておけばいいんだけど、私の場合、この過程を通して「ヨシ、買う!」という清々しい気持ち、ワクワク感を醸成するのが大事な気がする。

金額が大きいということと、買ったら買ったで初期設定のような、複雑そうなことが待ち受けているイメージが大きい。だから、気持ちを盛り上げて、購入からスムーズに使えるようにするところまで、一気にいってしまいたいのである。

楽しみではあるんだけどな。いかんせん腰が重い。こんなに時間をかけて買うパソコン、もう、うんと高くてもいいから壊れなきゃいいのに、と思う。耐用年数なんてなきゃいいのになぁ。

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電気屋さんでもらってきたパンフレットたち)


寒さが恋しい


12月にしては暖かい日が続いている。お菓子屋さんの店頭や近所の家々の庭先を飾るイルミネーションが季節外れに感じるほど。(なんだなんだ、もうクリスマスのイルミネーションやってるのか。気が早いなぁ。…あっ、べつに早くないのか。もう12月か。)

上着は冬寄りの厚手のものを着て出かける。でもまだ両手をポッケに入れて歩かない。一度入れてみたけど、むしろ少し暑いくらいで、まだそこまで寒くないんだな、と気づいた。12月らしからぬ気温がなんか物足りない。(朝起き出しやすいのは助かっているけど)


前回書いた、料理に関する悩みの解決策として、取り急ぎ

○作っても2品(一汁三菜にこだわらない)

○主菜をこれまでより多くこしらえお弁当にまわす(お弁当用のおかずを別途作らない)

○ちゃっちゃと作る(歌ったり、昼間あったことを振り返ってボーッとしたり、リラックスしながらやらない)

○副菜はできるだけほかの品と同じお皿に盛る(洗い物を減らす)

の四本立てでやっていくことにした。

完全無欠な対策を練っているといつまでも動けそうにないので、思いついたことから、できそうなことから。手際よくやることが料理の楽しみ、張り合いの一つになればいいな。

そもそも作らないとか、人を使う(旦那さんに頼む)とか、もっと根本的な考え方の転換が必要かもしれないけど、いまは、どうにもハードルが高い。

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(掛け布団を2枚重ねて、冬本番向けの完全体にする必要もまだない)


ちょっと止まって考えな

毎日料理でくたびれている。作り続けていたら手早くなって楽になるかと思っていたけど、ちょっと厳しいなと感じ始めた。

キャベツは手でちぎる、豚こま切れ肉は切らずにそのまま焼いちゃう、などの小手先の手抜きをやってるだけではダメみたいだ。

健康的なご飯を食べたい。食費を低く抑えたい。これを両方叶えるのは毎日台所に立つこと。

でも、これは重労働だ。毎日会社から帰ってから1〜3品作って、冷蔵庫に作り置いてあるおかずと合わせてご飯にする。彩りの良い食事を食卓に並べること、たくさんのおかずをお弁当にもりもり詰めるのが何より喜びで、気持ちの上で苦はなく続けてこられた。

この、気持ち的には無理がない、自分の満足と直結しているのが厄介で、手の抜き方が分からない。

旦那さんが日々の食事に高いレベルを求めてくるわけではない。継続して同じおかずが出てきても良いよと言ってくれる。工夫のしようはあるはずなのに、他ならぬ自分のこだわりが強すぎて、どこからメスを入れていったらいいかわからない。

仕事で疲れた、もうクッタクタ、というときほど、自分の料理が食べたいのである。「あー、誰か私の代わりに料理してくれないかな」と思う。(めっちゃ忙しいときに「誰か代わりにトイレ行ってくれないかな」と思う感覚で)

食に対するこだわりに加えて、自分を頑固にしているもう一つの要因がある。

それは「自分が料理を担っている」という思い込み。もし旦那さんが週に一度でも料理をしてくれたら助かるんだろうけど、私は「え、では私は何をいたしましょう」という気持ちになる気がする。

構え方がずれているか、少々行きすぎている。修正すべきなのになかなか腰が重い。

たとえひどく疲れをもたらす習慣でも、慣れた道を行き来するほうが、立ち止まるよりも楽なようだ。

側から見たらバカというか、盲目だよなぁと思う。

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一ヶ月前くらいに描いた、紅玉。