暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまにスケッチを描いています。

会社・お絵描きの話など

きょうは会社で、少しヘビーな仕事を終えた。
なのでちょっと気持ちが明るい。
今の上司は、思うに圧のかけ方が上手な人である。言葉の数は多いけど説明がわかりやすく、ちっともプレッシャーを与えない。

もう娘っ子ではなくなり、自然と上司となる人と年齢差が小さくなってきている。(女性の昇進が少ない昔風の会社である。また私自身にキャリアへの意欲が薄いということもある)
上司も同僚もみんな人なので、でこぼこはあるものとわかっているけど、だからこそ、優れたところを知ると目を見張る思いがする。


最近読んだ本では、意味を正確には知らない日本語がいくつかあった。
本を読んでると見かけるけど、自分では使わないことばたち。
けだし。なかんずく。いったい。
※最後の「いったい」は、「一体なんなんだろう?」みたいな使われ方でないのである。

たまには辞書をひいてみよう。

 

台所で立ったまま、子供がテレビを見てる間に描いた。まとまった時間を確保して、腰を据えて…と思っていたらお絵描きが重たいものになってきてしまうので、気張らず、ゴールを定めず、軽い気持ちで鉛筆やシャーペンを手に取れたらいいなと思う。

 

涼しくてほっと一息

先日図書館で、娘が気に入り、私も良いなと思える絵本に出会った。
幼稚園にあって中身を知っているのを、私に教えたいと借りたがったのだった。

とにかく本人なりのお気に入りと時々出会えて、本との付き合いを絶やさず歩んでいってもらえたらと思う。
だからまあどんなのでも良いんだけど、大人(私)好きのするものだと、正直嬉しい。

色々知識を仕入れて頭でっかちにはなっていても、体感してその良さを真に知ってるものについてのみ、子どもに与えようと実際に行動ができる。

 

今晩は、ぶりのレモンソテーにした。
初めてのレシピで、娘が進んで食べるか分からなかったので、確実に好きと知っているさつまいもの甘煮を添えた。

結局ぶりも美味しいとパクパク食べてくれて、ぶりの脇でてきとうに焼いたズッキーニの輪切りも完食だった。
きょうは朝洗濯をしたので、帰宅後その片付けもしないといけない日で、時間的に余裕がない中だったけど、満足な献立になって良かった。
さつまいもは久しぶりに食べた。秋の味がして懐かしい思いが広がった。

 

肉団子の中華スープと、本のこと

平日、会社から帰った夜に肉団子と春雨のスープを作った。
手間がかかるメニューなので迷ったけど、色々野菜が摂れるのが魅力で、もうその日の自分頼んだ、という感じで、勢いで献立に組み込んだ。

その日の朝は早起きができたので、できる限りの下ごしらえをした。
玉ねぎをみじん切りにして、人参と白菜、小松菜もカットして、鍋に投入するタイミングが同じものごとにバットにまとめておいた。干し椎茸は水につけた。
帰宅後は解凍しておいた豚挽肉を玉ねぎとまぜて団子を作り、野菜たちと鍋に入れて火を通すだけだったので、とてもスムーズだった。
段取りがうまく行ってラクができて、しかも娘がおいしいと言ってくれた。
珍しいくらいよくできた一日だった。

ロシアの文豪の、代表的な作品を読んでいる。
とても面白い。どうしてこんなのが書けるんだろう。とにかく心の機微が、絵で言うと写真と見まごう精密さで描かれている。
私はこの作品が何がどう面白いのかすら、過不足なく表現するのが難しいのに(色々書いてみたけど満足のいく文にならないから諦めた)。
作者はこんなふうにウンウン言いながら、書いては消し、書いては消ししながら作り上げたのじゃないだろうなぁ。
また一つ思うのは、人の感情って共通なのだな。世界中の人が外国の名作に親しめば、結局みんな人間なのだと、親近感を高め合えそうだと思った。(小学生のような感想)

 

本屋さんで本を買うと、幸せな気分になる。
図書館はよく利用していても、書店でじっくり選んで買った本を持ち帰る時の気分といったらほかにない。
本を読む意欲が絶えないのは、なんだかんだ生活に余裕が出てきたからだと思う。
身も心ももっと家事育児に明け暮れることに憧れないわけでないけど、自分の嗜好が分かり始め、体力もまだ健在ないま、好きなことをする余裕があることに、素直に感謝したい。

 

食洗機の話の続き・連休の終わり

前の日記で、食洗機について自分の思うところを書いた。
で、それ以降、時々それを思い返しては、「あれは私が比較的皿洗いを苦にしないタチだからだ」という思いがじわりと湧いてきた。

皆それぞれに忙しい中、食洗機など文明の利器は、遠慮なく使えば良いと思います。

私は、シンクに溜まった食器を見てまず少しウンザリしたあと、一気呵成にダーッと洗って、みるみる皿が減ってくるのや、いかに少ない水で手早く洗うかを、ちょっと楽しんでいる。
こういう説明を抜かして食洗機を使わないとだけ言うと、「てまひまを厭わない丁寧な暮らしをしているひと」が出来上がる。
そんな込み入った話をしていられない、例えば会社なんかでは、ふだんどの程度どんなふうに家事にエネルギーを割いているかは、話題として避けているのに、ブログではつい好き勝手書いてしまう。

 


今朝は少し家族に先駆けて早起き出来た。
1人のうちに洗濯機を回して、台所仕事に少し手をつけられた。
果物を切って、ソーセージを焼いて(定期注文している卵が思いがけず手に入らなかった)、昨日の晩の残りのお味噌汁を温める。
あとは朝のうちに、友達に送る荷物を作ってしまおうかな。

すぐそばにある家事と本が友のようなものだと思う。本は、主に朝夕の通勤中に読んでいるので、会社に行かない日が続くと読むペースが落ちる。
連休は連休で良いけど、仕事が再開するのは、本が読めるから、それはそれで少し待ち遠しい。

平日は朝家のことをやって仕事に行き、また夕方から夜にかけて家のことをやる。
そのリズム、時間配分は変わらないけど、不思議と仕事の存在が小さくなっている感じがする。
隙間時間にやることで生活の見え方、重みが変わっていくのは面白い。ままならないことはあるけど、やりようだと思うと勇気が湧く。

こだわり

いまの家の台所には食洗機が付いているけど、ほとんど使わない。自分で洗い、乾燥機能だけを使う。

とくに平日の朝晩の食後、時間と競争しながら洗い、それが日々を余裕のないものにしているなら、文明の利器として積極的に利用すればいいのに…という声は、あちこちから聞こえてくる。
それに対する反論は自分の中でもまとまらないのだけど、まず、自分が手を動かして5分や10分で終わることを、機械が水や電気を使って、大きな音を立てながら長い時間をかけて行うのが、どうも抵抗がある。
またそれを使って捻出できる余裕はさほど大きくなく、それで生まれたわずかなゆとりは、身支度や次の家事の行程に少し早く入れるというだけで、決して腰を下ろして一服できるほど大きくはない。

こうした肌感覚とは別に、普段炊事に携わらない人にとって多少納得のいくかもしれない、合理的な理由もあることにはある。
とくに晩、料理に使うボウルやザル、小鍋なんかは、できるだけ料理と並行して洗っておくのだが、先に食洗機に放り込まれたそれらと、食後に出た洗い物(食器やお箸)は、全部入れると食洗機の容量を超えてしまう。
鍋類やボウルなど、カサ高いものだけ洗ってシンク脇で自然乾燥させても良いのだけど、それを洗うならほかのもついでに洗っちゃうよという気持ちである。
これは洗う、これは食洗機にやってもらうから残しておく、と選り分けるのなんか、煩わしい。

あと、これはメーカーの違いも絡むだろうけど、乾燥機能だけ使う方が、きれいに乾いて水残りがない。


仮に、食洗機を閉め、洗いから乾燥までのコースを指定して決定ボタンを押したあと、食洗機の中にパッと灯りが止まって、どこからともなく小人たちがワラワラ現れて、一生懸命食器を洗ってくれているのなら、それは楽しい。
乾きが甘いこともご愛嬌として受け入れられそうである。

こんなことが自由に書けるこの場に感謝。

 

餃子と炊事の話


今夜のご飯に餃子を作った。たくさん作って冷凍しておくと平日の晩に何度かラクができる。
常温に戻した冷凍エビを刻んで、キャベツと長ネギも刻んで、豚のひき肉と、あとは調味料・片栗粉と合わせて混ぜ混ぜする。
調味料は醤油とおろし生姜だった。ニラやニンニクを使ってないと、翌日の息は気にしなくていいのかしら。またお弁当にも入れられるのかしら?

豚ひき肉は300g、エビは200gを使った。
参考にしたレシピは餃子12個分とあった。私は餃子の皮は50枚のを買ったので、各材料はレシピの約4倍にした。

お店で食べる餃子の美味しさにはならないけど、まあ美味しかったし、なによりは作り溜めできた安心感である。

餡を中に入れて餃子の皮を包むとき、実家では水溶き片栗粉を小皿に拵え、それをフチの半円に糊づけのようにし、閉じ合わせていた。
何年か前に漫画『きのう何食べた?』を読んで、同じシーンにただ水を使っていたのに衝撃を受けた。
そういえば餃子の皮のほうに粉がはたいてあるので、それもあってか、充分くっついてくれるのであった。

私はこういう、実は省ける手間を、何の疑問もなく盲信的に踏襲していることが多い。
疑問がないのでストレスもないけど、立ち止まってラクな手順を選べ直せる人に比べたら、ちょっとずつ時間を食われているのだろうと思う。

私も絵を描いたり本を読んだりする時間をより多く取りたいとの気持ちはあるけど、同時に、料理にかける手間の一つや二つ、歌でも歌いながら快く受け入れるゆとりがあっても良い(なぜそこに無駄を見出そうとしないといけないのか)と思うし、側から見れば複雑で面倒な手順を長年の慣れによって鮮やかな手捌きで短時間でこなせるようになることにも憧れる。

しかしまあ、のんびりやっていたら、いつまで経っても手早くはならないのかもしれない。
炊事が職人技のようになるのには、やはりいっときは時間に追われていたという背景が必要なのかもしれない。

台所仕事は、一手に引き受けると年中休みなく続き、だから上達という変化は必ず味わえる。

 

今日のお迎え

幼稚園のお迎えに行った時、外からお教室を覗くと、娘はお友達の女の子4人と仲良く向かい合わせに座って、お絵描きか塗り絵をやっているようだった。

たいていすぐに先生が気づいて呼んでくれるけど、束の間、お友達といる自然な光景にうっとり見入ってしまう。

帰りは、もっと早くお迎えに来て欲しかったと言われる日もあれば、まだ遊びの途中だったのに、もっと遅く来て欲しかったと言われる日もある。
私は小さい頃幼稚園時代から集団生活が苦手で、時期によっては不登園気味だったので、娘が基本的に楽しそうに通っていることが嬉しくありがたい。

とはいえ楽しいことも嫌なこともあるようだし、お休みの日はやっぱり嬉しいようだ。

血のつながりは関係なく、私が子ども時代悩んだのと似たようなことで悩みもすれば、また私がわからない悩みも持つのだろうと思う。
(最近、しばしばお通じの前にお腹が痛いと言う。私はそういうことがこれまであまりない体質である。たとえばそういう小さなことに触れても、しみじみそんな気持ちになる)

まずはじめの子離れを求められている気がする近ごろである。