暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまにスケッチを描いています。

こだわり

いまの家の台所には食洗機が付いているけど、ほとんど使わない。自分で洗い、乾燥機能だけを使う。

とくに平日の朝晩の食後、時間と競争しながら洗い、それが日々を余裕のないものにしているなら、文明の利器として積極的に利用すればいいのに…という声は、あちこちから聞こえてくる。
それに対する反論は自分の中でもまとまらないのだけど、まず、自分が手を動かして5分や10分で終わることを、機械が水や電気を使って、大きな音を立てながら長い時間をかけて行うのが、どうも抵抗がある。
またそれを使って捻出できる余裕はさほど大きくなく、それで生まれたわずかなゆとりは、身支度や次の家事の行程に少し早く入れるというだけで、決して腰を下ろして一服できるほど大きくはない。

こうした肌感覚とは別に、普段炊事に携わらない人にとって多少納得のいくかもしれない、合理的な理由もあることにはある。
とくに晩、料理に使うボウルやザル、小鍋なんかは、できるだけ料理と並行して洗っておくのだが、先に食洗機に放り込まれたそれらと、食後に出た洗い物(食器やお箸)は、全部入れると食洗機の容量を超えてしまう。
鍋類やボウルなど、カサ高いものだけ洗ってシンク脇で自然乾燥させても良いのだけど、それを洗うならほかのもついでに洗っちゃうよという気持ちである。
これは洗う、これは食洗機にやってもらうから残しておく、と選り分けるのなんか、煩わしい。

あと、これはメーカーの違いも絡むだろうけど、乾燥機能だけ使う方が、きれいに乾いて水残りがない。


仮に、食洗機を閉め、洗いから乾燥までのコースを指定して決定ボタンを押したあと、食洗機の中にパッと灯りが止まって、どこからともなく小人たちがワラワラ現れて、一生懸命食器を洗ってくれているのなら、それは楽しい。
乾きが甘いこともご愛嬌として受け入れられそうである。

こんなことが自由に書けるこの場に感謝。

 

餃子と炊事の話


今夜のご飯に餃子を作った。たくさん作って冷凍しておくと平日の晩に何度かラクができる。
常温に戻した冷凍エビを刻んで、キャベツと長ネギも刻んで、豚のひき肉と、あとは調味料・片栗粉と合わせて混ぜ混ぜする。
調味料は醤油とおろし生姜だった。ニラやニンニクを使ってないと、翌日の息は気にしなくていいのかしら。またお弁当にも入れられるのかしら?

豚ひき肉は300g、エビは200gを使った。
参考にしたレシピは餃子12個分とあった。私は餃子の皮は50枚のを買ったので、各材料はレシピの約4倍にした。

お店で食べる餃子の美味しさにはならないけど、まあ美味しかったし、なによりは作り溜めできた安心感である。

餡を中に入れて餃子の皮を包むとき、実家では水溶き片栗粉を小皿に拵え、それをフチの半円に糊づけのようにし、閉じ合わせていた。
何年か前に漫画『きのう何食べた?』を読んで、同じシーンにただ水を使っていたのに衝撃を受けた。
そういえば餃子の皮のほうに粉がはたいてあるので、それもあってか、充分くっついてくれるのであった。

私はこういう、実は省ける手間を、何の疑問もなく盲信的に踏襲していることが多い。
疑問がないのでストレスもないけど、立ち止まってラクな手順を選べ直せる人に比べたら、ちょっとずつ時間を食われているのだろうと思う。

私も絵を描いたり本を読んだりする時間をより多く取りたいとの気持ちはあるけど、同時に、料理にかける手間の一つや二つ、歌でも歌いながら快く受け入れるゆとりがあっても良い(なぜそこに無駄を見出そうとしないといけないのか)と思うし、側から見れば複雑で面倒な手順を長年の慣れによって鮮やかな手捌きで短時間でこなせるようになることにも憧れる。

しかしまあ、のんびりやっていたら、いつまで経っても手早くはならないのかもしれない。
炊事が職人技のようになるのには、やはりいっときは時間に追われていたという背景が必要なのかもしれない。

台所仕事は、一手に引き受けると年中休みなく続き、だから上達という変化は必ず味わえる。

 

今日のお迎え

幼稚園のお迎えに行った時、外からお教室を覗くと、娘はお友達の女の子4人と仲良く向かい合わせに座って、お絵描きか塗り絵をやっているようだった。

たいていすぐに先生が気づいて呼んでくれるけど、束の間、お友達といる自然な光景にうっとり見入ってしまう。

帰りは、もっと早くお迎えに来て欲しかったと言われる日もあれば、まだ遊びの途中だったのに、もっと遅く来て欲しかったと言われる日もある。
私は小さい頃幼稚園時代から集団生活が苦手で、時期によっては不登園気味だったので、娘が基本的に楽しそうに通っていることが嬉しくありがたい。

とはいえ楽しいことも嫌なこともあるようだし、お休みの日はやっぱり嬉しいようだ。

血のつながりは関係なく、私が子ども時代悩んだのと似たようなことで悩みもすれば、また私がわからない悩みも持つのだろうと思う。
(最近、しばしばお通じの前にお腹が痛いと言う。私はそういうことがこれまであまりない体質である。たとえばそういう小さなことに触れても、しみじみそんな気持ちになる)

まずはじめの子離れを求められている気がする近ごろである。

 

平日・夜物語

幼稚園から帰ったら、まず自分のカバンを下ろし、上着を脱ぎながら娘に声をかける。
「上着脱いで、お母さんかけるからどこかおいといて!ぼうしは自分でかけてね。ほんで手洗おう」
いつもの流れなので言わなくても分かってるとは思うけど、幼稚園で作ってきた作品(お絵描きや工作)を一番に出そうと、床に座り込んでリュックを開けようとすることがあるので、つい口うるさく言ってしまう。
それと、自分や娘の上や着荷物が廊下などに、くしゃりと置かれたままの光景が嫌で、とにかくそれぞれ、然るべきところに片付けてしまいたいと気持ちがはやる。

手を洗うのに洗面所に連れていく。台に乗ってもまだ少し蛇口が遠いので、水を出したり止めたりをやって手伝う。
鏡に映った娘の顔を見て、かわいくなって、後ろからハグしたりして洗うのを見守っている。

そのあとは娘のためにテレビでYouTubeをつける。帰宅後は15分程度の動画を一つ見るのが習慣になっていて、その間私は夕飯の準備をする。
たいてい残り物のおかずやスープ、冷やご飯を温めたりするだけか、何か一品作ることもある。
その間、急いでいるのにも関わらず、ついつい携帯を手に取り、どう考えても今見なくていいニュース記事を読んだりしてしまう。できればやめたいことではある。
動画が終わってまだ食事が用意できていなければ、娘はテーブルに移動し今度はお絵描きか何かをして待っている。
なんやかんや話しかけられて、台所仕事に集中できない私がカリカリとして感じのよくない返事をし、それにまたつっかかってこられて、またトゲトゲしてしまう。

食卓の準備ができて娘が席に着くと、四割くらいの確率で、「おいしくなさそう」とか「えーコレぇ?」と文句を言う。
「好きなものばっかじゃないよ、きょうはコレ食べて!」とか
「まあ一口食べてみてよ」
などと軽く流せるかどうかで、その日の自分の疲弊度が測られる。

娘はそこまで食事大好き!な子じゃなく(お菓子や大好物は除く)、しばしば、まだ胃袋には入るのに食べることに疲れて食事を終えようとする。
もう食べられない、と言った時は、「お腹いっぱいなの?それとも食べるの疲れた?」と尋ねて確認して、後者の時は口に運んで手伝ったりする。
いま必要なサポートであるのか、甘やかしになってしまってるのか、時折悩む。

完食、もしくはほぼ完食できたら、食後のデザートを出す。かりんとう、クッキーなどの焼き菓子、ヨーグルトなど。
食後のデザートを目指して完食を促すことも多いけど、これもまた適切なことなのか自信がない。
食事にはだいたい小一時間かかる。

 

食後はお風呂を溜め始め、その間私は食べ終わったお皿を洗う。
台所の片付けは10分前後で、お風呂が溜まるまでには終わるけど、洗い終わるのを見計らって、娘が遊ぼうよと誘ってくるので、すごろくやブロックを少しやってから入浴になる。
20時には服を脱ぎ始めたいけど、段取り次第では15分を回ってしまうこともある。

お風呂では初めに歯磨き、次に髪を洗い、最後に体を洗って、湯船に浸からせる。娘がスーパーボールやアヒルなんかで遊んでいる間に、私は自分のことをやる。
思ったよりお風呂が遅くなって焦っている日でも、湯船に入ると気持ちよくて、楽しい気分になる。娘と喋ったり遊んだりしながら、冬場なら少し追い焚きして体を温めてから上がる。

体を拭きパジャマを着るまで10分くらいかかる。少しアトピー肌なので、保湿を入念にやる。
そのあとはリビングに戻りお絵描きをするので、その後ろからドライヤーをかける。
ブォーとうるさいのにしきりに話しかけてこられて、切っては答え、ドライヤーを再開したらまた何やら質問してくるので切って応じて、を繰り返して、余裕のないお母さんはまたイライラしたりする。
すぐにイライラして、でもすぐ反省して、を繰り返す私を日々見ている娘はどう思ってるんだろう?という情けない気持ちと、精神衛生的によろしくない環境を与えてしまっているだろうことが心配になる。
本当にもう、気持ちがすぐ顔に出ない人になりたいと思う。

髪が乾いたらやっと寝室へ。スムーズにいく日はこの時点で21時ごろ。
夜間に飲みたいときに飲めるようにストローマグにお茶を入れて持って行く。
横になったら絵本を1〜2冊読む。読む間にとろんとしてくれてよしよしと思う日もあれば、途中でたびたび「これはどういういみ?」と質問したり、可笑しい絵を見つけて大笑いしたりと、なんだか賑やかになり長引いてしまうこともある。
でもこの段階ではあとは寝るだけなので私の方も気が楽で、比較的伸びやかに対応できることが多い。
消灯したら、寝かしつけに歌を歌う。寝付くまでに2〜4曲ほど要する。基本的に私が歌いやすいものを好きに歌ってきたけど、近ごろは娘のブームからリクエストがかかり、ジュディマリからスタートする。

時々私が歌いながら先に寝落ちする時は、「うたって!」と起こされる。
娘が寝ついて、私が起きていられたら、そうっと寝室を抜け出して台所へやってきて、一息つく。
つくづく台所が自分の部屋のようである。

 

冬休みで良い生活リズムを見出す

今日は仕事始めで、久しぶりに6時起きをした。
アラームが何度か鳴って目を覚ました時に、あぁ冬休みは終わったんだ、今日は早起きをする日だ、と思い出すと同時に、え、こんなに眠たいのに起きるの?と、その起きるという行為に暴力的なものを感じた。

冬休みの間中、夜は0時前後の就寝、朝はアラームをかけずに自然と目を覚ます時間に起きるという生活をした。
その自然と目が覚めるのが8時前後だったので、まあそれくらい本来は寝たい体なんだろうと思う。(そうしていれば昼間に眠気に襲われることも少なかった)
眠い目を擦りながらがんばって起きる、ということは、多くの人が日々やっていることだろうけど、それって、体に無理を強いているんだろうなぁ。
夜更かししない努力はするとして、朝は自然に目が覚める時間に起きて、その上で日中できることをやって稼げたらいいのになぁ。
(と、ぼやくだけで、自発的にその仕組みを整えようという気概はないので、なんていうか、甘ったれの愚痴なんですけど)

そりゃ冬休みといえど家族がいる中で、ハウスホールドという業務が絶え間なくあって、楽しくてあっという間というよりは、濃密な9日間だった。でも通常の平日のように日を追うごとに疲れが溜まっていくということがなくて、毎日の疲労はその日の睡眠でかなりカバーされていた感じがあって、それがよかった。

 

おかずを作りすぎず、作り置いたぶんは二、三日のうちに食べ切るということができるようになってきた。それが嬉しい。
また、洗濯物を取り込んで畳んで、空いたタンスに詰めていくのも好きだ。(それで消耗する、腰を下ろせなくて苛々するというのはまた別の話で)
作って食べて無くして、使って汚して洗って、のサイクルを回すのは、たのしい。

 

 

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あいさつの話・元日の台所仕事

新しい年が始まりました。
皆さま今年もよろしくお願いします。

今日の正午過ぎ、買い物に出た時にマンション敷地内ですれ違った人に「おはようございます」って言ってしまって、即座に、時間的にはこんにちは、だったわ…と恥ずかしい思いをした。(違うんです、私さっき起きたとかじゃなくて、ちゃんと8時半くらいには起きたんです)
この季節は、昼をまわっても朝のように空気がぴんとしていて、おはようございますって言いたくなるんだよな。

でもその人から返ってきたのが、こんにちはだったか、おはようございますだったか、覚えていないなとふと気がついた。
いつでも自分のことでいっぱいいっぱい。(控えめに「…まーす」とかだったかもしれない)

元日の朝の献立は、お雑煮、黒豆、筑前煮、ぶりの照り焼き、かまぼこ、伊達巻き、卵焼き
だった。
お雑煮は当日朝作ったけど、黒豆〜ぶり照りは年末に作り置いたもの、かまぼこからあとは出来合いのもの。※黒豆は電気圧力鍋

とはいっても取り分けるお皿を考えたり、お雑煮のお餅を焼くタイミングに悩んだり、いつもの朝食の倍は手間がかかったと感じた。

べつに家族皆が喜ぶわけでもないし、そんなに品数も量もないのでそれで三が日持つこともなし、したがって主婦が楽できるというわけでもなし。

でも子どもがお正月の朝の少し特別な感じ、昨日までの朝とは違うなと微かにでも感じ取ってくれたらという思いでやっている。

(経験の浅かった過去のある年は、田作りとか、ほかにもあれこれやろうとして、年末の自分のキャパシティという現実を見ずに張り切って買い込んでおきながら体調を崩し、手が回らなかったので、その兼ね合いは今回大事にしたつもり)

できる範囲で、自分の気の済むようにやろう。
ただしできれば独りよがりになることなく。

 

(家にあれば一日はひとつは食べたい、おみかん)

 

 

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にんじんトラップ

玉ねぎ、じゃがいもなど、まとまった個数買えて日持ちがする野菜を、使おうと思ったその時に切らしていると気がついて、あぁ…となるのを、玉ねぎトラップ、じゃがいもトラップなどと呼んでいます。
今夜はにんじんトラップでした。
レシピににんじん1/2と書いてあるところ、確かにんじんあったよなと思いつつ野菜室を開けてみたら、前回なんでそれだけ残した、と思うくらいちょっと(1/6くらい)しか残ってなかった。

少し前に家族で野菜収穫体験に参加して、白菜やかぶ、ブロッコリーなど冬野菜をたんまり持ち帰ってきた。しかもその時点ではにんじん、玉ねぎなどが買い置きがあったので、もうしばらく野菜買わなくていいななんて話をしていたら、本当に、今週は「今野菜足りないのなかったかな、何か買い足すものは」と気にする習慣が抜け落ちてしまっていた。

にんじんは特に、和洋中問わずスープに使うし、炒め物にも煮物にも、主菜副菜偏りなく登場するし、もういつでも台所にあってほしい野菜だと思う。
そのわりに(それがゆえに?)そんなに丁重に扱っていないというか、ありがたく思いながら接していない気がするな。

 

子育てについて、大変なこと、面白いこと、かわいかったことなど、本当にたくさんの人が我が子に関して発信しているのを、毎日のようにスマホ上で見かける。
それでふと思うのは、私の母などは私の幼い頃、そういういろんな思いや感想を、その当時だれかに、またはどこかに対して、発散していたのだろうか。
私はそれを知らないから、感じとしては、ただ全部を味わい、飲み込み、あらゆる段階に取り組んでこられたような印象がある。
私はまだ子育ての序盤だけど、それでもさまざまな経験を通して、あぁうちのお母さんもこんなこと思ったのかな、面白かったのかな、と、経験を通して共感していくのが、なんというか、奥ゆかしい。

 

 

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