二人暮らし*会社のこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや動物のスケッチを描いています。

傘のこと


きのうは傘を持って家を出た。朝バタバタと支度をしているとき、テレビから「西日本を中心に広い範囲で雨、関東でも午後から降り出すでしょう」と聞こえてきて、え、きょうは雨かいな、と振り返ると画面には、日本地図の上に雨雲が大きく広がっている図が映され、「きょうは全国的に雨」という印象をもった。なので折りたたみでなく大きな傘にしたんだけど、家を出て歩きながら見回せば、みんなほとんど傘を持っていない。

えぇ〜。きょうは雨って言ってたのに、みんなどうしたん?大きな傘を提げている自分が、大げさな感じがして恥ずかしい。最寄り駅に着いてから一人、また一人、と傘を持っている人を見つけ、ホッとしながら会社に向かった。(たぶん全体で、傘を持った人は1/4にも満たなかったと思う)

まぁ、家出るときに降ってなければ折りたたみ、なのかなぁ。私も「降るかどうかわからない、降っても小雨程度か」というときは折りたたみにする。降らなかったら大きな傘は荷物でしかない。

ただ、折りたたみは、その都度畳まないといけないのが手間なのだ。

折りたたみ傘をたたむのは苦ではないけど(本来の折りジワを見つけながら、余計なシワのつかぬよう、丁寧にたたむのがちょっと楽しい)、それを改札前で人の波を妨げないようにパパパッとやらなきゃいけないのがいつもストレスだ。立ち止まって人の邪魔にならないように柱の陰なんかでやることもあるけど、濡れてるし、この後電車乗って着いて駅を出たらまた使うかもしれないしで、そんなに丁寧にやる気にならない。(几帳面なのかズボラなのか)


傘といえば、小学一年生のとき、雨の日に下校しようとしたら、朝持ってきたはずの自分の傘が傘立てに無くて、しばらくそこでウロウロしていたら先生が通りかかって、結局担任の先生に車で送ってもらったということがあった。

真相は、同じ傘を持った子がクラスにいて、間違って私の傘を持ってっちゃったということだった。たぶん同じ柄の傘が傘立てに残っていたけど、自分のじゃないから使うわけにもいかず、かといって職員室に行って助けを求めることも思いつかなくて、ただ途方にくれて、心細い思いでそこにいたのだった。


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(大きい傘を持って出たからには、降ってほしいと思ってしまう。土砂降りとかじゃなくても、パラパラ程度でも。)


チョコ祭り


バレンタインデー。会社では何人かからチョコをもらった。とりあえず一通り開けて、一つずつつまんだ。いま、食卓のテーブルの上に小さな可愛らしい箱がいくつか置いてある。

ちょくちょく台所から振り返って、その光景にホッコリする。一度にたくさんは入らなくなったけど、やっぱり甘いものは好きだ。

一昨日行ったデパートのお菓子売り場では、圧倒的にチョコレートが幅を利かせていた。

焼き菓子もおせんべいも頑張っていたけど、チョコや、チョコレートをあしらったお菓子に人の波は動いていた。

バレンタイン直前、こんなギリギリに買いに行く人いるかな、みんな大体連休中に買い物しただろうなぁとデパートへ足を向けたけど、さすが都心、ものすごい混雑だった。満員電車のような人出に「おうおうおう、すげえなこりゃ」という初老の男性の声が頭上で響き、みんな同じ気持ちでございます、と心の中で相づちをうった。

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こういうチョコは、どれから食べようか迷う。これはミルクチョコ、これはキャラメルの味がする、とか違いはわかるけど、結局どれもおいしい。


昨日の話ふたつ


昨日の晩はご飯を作りながら、お腹が空いてしょうがなかった。だめだ、出来上がるまで待てない、そう思って戸棚を開けてお菓子を取り出したけど、おせんべいやらクッキーやらを前にして「違う、今はこれじゃない」と感じ、元の場所にしまった。

そうこうするうち、炊きあがって保温になっているご飯に目がいった。あ、ごはんがいい!

全体を混ぜて気持ち蒸らしてから、しゃもじでちょこっと、手のひらにとり、あちあち、となりながら頬張った。あー。これだ。おいしい。二口めは余っていた味海苔を巻いて口に入れた。これも最高だった。

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(思いつきで行儀悪くつまみ食いしたから、また一段とおいしかったという気がする。)


*話が変わります。

きのうは久しぶりに大学時代住んだ町へ行った。駅を出たところのコンビニや、道なりに行くと左手に見えてくる小さな団地がそのままで、懐かしくなった。

その、懐かしいと思えたことにホッとした。通った高校の最寄駅界隈は、3年間行き来したというのに、大人になってからホームへ降り立ってもなんの感慨も湧いてこないのである。どちらかというと感動しいで、センチメンタルにひたるハードルは低いほうなのに。

なんとなく思うのは、大学時代のほうが、情けない、恥ずかしい経験をしたり、楽しいことも悲しいこともあり、気持ちの上でデコボコとした日々だった。そういう青臭い時期と毎日の景色は知らず知らずのうちにしっかり結ばり合い、心の奥の風景のひとつになっていくのかもしれないなぁ。

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校則のこと


高校時代、校則がとても厳しかったという人の話を聞いた。髪を染めたりスカートを短くするのはもちろんのこと、お化粧もだめ、眉毛をいじるだけでも注意を受けたということだった。

お化粧くらい許してくれてもいいのにねぇ、とそのときは本音で相槌を打った。

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ただそれから何日か経って、ふと、この「厳しい校則」は、わりとよく考えられたものなんじゃないかと思えた。

校則というのは、勉学に励むべき学生の、清潔で健全なイメージに照らしてオーケーかアウトかを判断するような、表面的なものではない。「おしゃれや遊びよりももっと別のことに時間を投じてほしい」というメッセージがそこにあるんじゃないかと思ったのだ。

私は日々時間に追われている。通勤の電車の中でメールの返事を打とうとか、今夜はご飯の後に何でもいいから絵を描きたい、とか、30分や1時間単位の空き時間の使い方をいつも考えている。

それなのに、しばしばスマホでネットサーフィン(なんかこの言葉もう古い感じがするなぁ)にふけってしまい、自ら貴重な時間を潰してしまう。そうやって大した思い入れもない事に投じた時間を1カ月とかで掛け算すると、かなりの時間になる。

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話を学生さんのことに戻したい。お化粧を例に取れば、朝も晩もそれなりの時間がかかる。化粧品選びも楽しいし、のめり込めば研究の尽きない世界だと思う。

学生はほかのことに興味を持たないのがいい、とまでは言わない。大人になる前に誰でも、ちょっとした遊び、脱線、綱渡りをしなければいけないとも思う。

ただ勉強も部活も、その時その立場でしか時間をかけられないことである。また、体の成長にとって大切な時期に充分な睡眠をとるのも、あとから補てんの効かないことだ。

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大人になっても時間の使い方は難しい。(自分がだらしないだけかな…という考えがよぎるけど、話が進まないので言い切ることにする)学生のうちは、そうしたルールでうまく縛って、かけがえのない時間の使い方をさせてやろうというのが校則なのかもしれない。

こう言われても、学生はそう簡単に説得されないと思う。だけど、押し付けがましくても、ルールという形で大人の保護の目、思いやりを常に注がれていることは、意識の上では歓迎されずとも、若者とっては大切なことのように思える。


私が通った高校は校則が緩かった。けれど私は髪を染めず、耳に穴をあけず、スカートの裾をつめることもしなかった。化粧もせず、なんなら夏に日焼け止めを塗るのすら忘れがちだった。

結局3年間、地味な格好で通した。興味のない体を装いながらも「自分もかわいい格好をしてみたい」と心の隅では少し憧れていた。ただ、とにかく自分に自信がなく、何をするにも気後れがして、自分の殻から出られなかった。言い方を変えると、まだ殻から出る時期を迎えていなかった。

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けれど、みんなが思い思いの格好をしている環境は好きだった。どんな風でもいい、というのは心地よかった。


最後の最後に、書いてきたことを自分でひっくり返してしまった気がするけど…。

校則は良い悪いを論じるのが難しいなぁと思った。まず何を、誰の満足をゴールにするかで意見は様々だろうし、またそれを課される若者の状態が一様ではない。

この日記では、これまでどちらかというと若者目線で「うっとうしいなぁ」という印象でしかなかった校則に対して、新しく芽生えた視点をまとめられたと思って終わることにする。


こういうところが良くないよなぁ


朝いちばん、受け取った仕事のメールが、つっけんどんだったことにムッとした。すぐにできる簡単な仕事なのを、あえて後回しにしてやりたい衝動に駆られて、「いやいや、こんな簡単に怒ってどうする」と思い直し、すぐに対処した。(丁重なお礼のメールをがすぐに返されてきた。)

最近はこういう、しょうもないことですぐに腹が立つのが自分自身で目について、ダメだなぁと思っている。

腹が立ったとき、「聞いてよ、こんなことがあって」と仲の良い友達に話すところを頭の中でシュミレーションすると、言葉に落とすことによって、自然と「小っさ!」「しょうもな!」と気がつく。

ゆくゆくは、そんなことをしなくても、穏やか〜に受け流せる大きな気持ちを持ちたい。

言うべきことを言わない、失礼に眼をつぶる、ということじゃなくて、仕事にせよなんにせよ、どのみち付き合いが続く相手に、期待を失わないでいることで、いつか良い関係ができていくんじゃないかと思う。

やり方はいろいろなんだろうけど。時には雨降らせて地を固めてもいいのかもしれないけど。どうしても「一言言わねば」というときもある。ドンパチやらずに、相手の耳に入りやすい言い方で気持ちを伝える手腕も必要で、それもまた自分に足りてないなぁと感じる。

(基本的に何があっても、黙ることを選びがちで、頭の中で自分が納得させることにエネルギーをさいてしまう)


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実家から荷物が届いた。野菜や果物、おかずの詰め合わせ。

昨夜の献立は、荷物に入っていた煮豚と、筑前煮にした。ご飯を炊いて、煮豚に添える小松菜を茹でただけ。楽だった。


のし袋と辞書


久しぶりにのし袋に名前を書く。金額を大字(だいじ)で書こうとして、念のためネットで漢字を調べた。よし、書くぞ、と思って筆ペンを握ったけど、なんだかやっぱりまだ不安で、席を立って本棚から国語辞典を引っ張り出してきた。

それで該当する数字を調べて、うん、大丈夫、合ってる。そうやって確認して、やっとペン先を紙につけた。

フォーマルな場に行くとき、さまざまなマナーを必ずネットで調べる。たくさんの便利なページが出てきて、手取り足取り教えてくれて心強い。だけど、厳密にいうとどんな情報も確実性に欠けるので、当日を迎えるまで不安が拭えない。そういう不文律は合理性より慣習の力が強く働いているだけ、自身の頭で「常識に従って」考えるには限界があり、だからこそ間違いないことを知りたいのに、出典が信頼できない。

そこへ、この国語辞典の安心感。最終的に辞書に助けられたのがおかしくなった。もちろんネットでも調べて、辞書も見て、とソースがふたつあったから安心感が増したんだけど、決定打は辞書のほうだった。

引越しで本を処分したとき、手放さなくてよかった。ただ、それはこうやって役に立つと思ったからではなくて、「辞書を捨てるなんて」という抵抗感からだった。

辞書は、用がなくてもたまに手にとってペラペラ見たりすると面白いものだけど、正直言って、それはむしろ教養の世界から離れたくないという思いの象徴、なんでも効率が重視される生活を送る中での意地、お守りのような存在になっていた気がする。こうして生活のなかで自然に辞書を求める、辞書にすがることが久しぶりで、嬉しくなった。


*冠婚葬祭については、地域差なんかも大いにあるので、本当に困ったときは親などの年長者に確認する。


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*小学生の頃、新しい漢字を習うと、その漢字を使った熟語の意味を辞書で調べるという宿題が出た。目的の熟語が見つからず焦れていて、親から「だんだん早くひけるようになるよ」と言われたなぁ。


卓上カレンダーと夢


台所にちっちゃな卓上カレンダーを置いてみた。先月も次月も載っていない、ほんとにシンプルなもの。目先の予定を書き入れてみて、あぁこれは良いなと思った。

私は料理なら料理、掃除なら掃除、と目の前の仕事しか見えなくなることが多いのを、ふと顔を上げた時にカレンダーが目に入り、「そうそう、これやらなきゃね」と思い直す。その場で用事に手をつけるわけではないけど、なんとなく安心するのである。

そして、用事が終わったら、「何月何日完了(´ε` )」とイラスト付きで書き込んだりしている。なんだか楽しい。


話は変わるのだけど、カレンダーといえば、いつか自分の絵を挿絵にした卓上カレンダーをこしらえたい。

一年を共にするカレンダーである。それなりのものでないと使いたいとは思ってもらえないと思うと、どんなのにしようか、楽しくも悩ましい。(はなから販売が目的というのではないけど、どうせならそういう心意気でこしらえたい。)

今年中に、とは言わないけど、近いうちに実現したい夢のひとつ。


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夫婦喧嘩をして、その少し後にこの絵を描いた。思うところがあっての絵なのだけど、嵐が過ぎたいま、そのときの気持ちをわざわざ掘り起こす気にならないので、絵だけ。(説明しないと伝わらないだろうなぁ。まぁいいや。一応言っておくと、別にみかんの投げ合いをしたとかそういうことではありません)