ここ2カ月かけて、洋書の小説を読んでいた。辞書をひきひき、一日数ページずつ、えっちらおっちら、だった。わからない単語だらけだったけど、先が気になるから読んでいけた。
バババババーっと、気持ちの上では貪るように、早く、早く、と、次のページを繰りたかったけど、単語を調べながらなので、そうもいかなくて、じれったかった。
実際に全ての単語をわかる必要はなくて、雰囲気でなんとなく、想像、類推で進んでいける部分が大きい。(ざっくりと〔喜か哀か〕〔良か悪か〕がわかれば良かったり、また、動詞は調べるけど副詞は必ずしも調べなくても行けたりする)
おお、うんうん、たぶんこういう感じなんでしょう、と進んだ先でしっくり来なくなってきて、あ、なんかどっかで間違ったみたい、と遡って読み直したりもした。
で、本題はここから。
後悔しているのは、読み終わった直後に、自分の得た印象、解釈をネット上で答え合わせしてしまったこと。
読了ほやほやの、まだ言葉にできない、その無形のものは、時間の経過とともに醸成されて、頭の中に降りてきたと思う。たぶんそこで改めて気づくこともあった。それがまた面白かっただろうな。
なのにそのほやほやの「感じたもの」を他人の言葉で上書き保存してしまった。
自分なりに感じ取ったものがあったのに、自信が持てなくて、ついスマホに手を伸ばしてしまった。日本語の小説と同じように英語を読むのは難しい。
読み終わってもまだ読書は続いている、と覚えておきたい。(帰るまでが遠足だ、みたいなことが言いたかったけど、うまい言葉が浮かばなかったのでそのまま書きました)
「まだ…まだ読書は終わってない…」
(別に本に向き合ってジッとしている必要はないけども)
週の後半に入りお天気が荒れてきた。
電車が遅れるからちょっと早め(10分くらい)に家を出ようと思うんだけど、結局いつもと同じ時間になり、会社にはギリギリになる。
(なんでも早めに、余裕をもってやるほうだったのに、最近は会社に着くのが始業ギリギリ。それが平常運転になってきて、でもそれで平気。人って変わるなぁ。)