暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

のどの渇き・装い


今週は暖かかった。朝会社に着いて飲む水筒の冷たいお茶がおいしかった。

寒い季節、日中お茶や水を飲むのは気分の仕切り直しだったり、「水分とらなきゃ」という思いからだったりする。春の気候の下、素直にのどが乾いて飲むお茶はこんなにおいしかったんだな。

あと、今週はインナーも衣替えした。秋口からずーっと着ていたヒートテックをやめて、ふつうのキャミソールを着た。

別にまだ、よっぽどモコモコのやつでなければセーターを着てたって汗をかかないんだけど、気候が、街をゆく人々の服装が、「セーターはちょっと季節遅れじゃないですか」という気にさせる。

日々の通勤で、カラフルで着心地軽そうなスカートやトレンチコートを見ているとこちらも気分が華やいできて、久しぶりに服を見に行きたいなぁと思う。ただ、何が流行ってるのかわからないから、まずファッション誌を買ってから…とまごまごしているから、なかなか買うところまでいかない。(やっと出かけてみるとお店ではもう夏物や秋物を売ってたりする)

きょうはとてもいい天気。めったに出ないベランダに出て、物干し竿をきれいにして、来客用の布団を干した。


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豚肉とほうれん草・書き順


きょうはとても寒かった。暦を無視した冬の格好で、傘をさして家を出た。

ぽかぽか陽気の日には「こんな日に屋内にこもって仕事してるなんて」とかボヤくけど、今日は今日で「こんな冷たい寒い日に出かけるなんて」と思った。


今夜は豚肉とほうれん草、厚揚げの炒め煮を作った。レシピに書いてある調味料を全体的に気持ち少なくしたら、味を程よい濃さにできた。片栗粉でとろみをつけたから、お弁当にも入れやすい。もう今から明日のお弁当が楽しみ。(もしかしてここ数日食欲が乏しかったのは、コンビニ飯だったせいかもしれない。やっぱり自炊がいちばん)

仕事中、書類の宛名に「飛」の字を書く機会があった。正直なところ、私は長年この字を勢いで書いていて(ゆっくり一画ずつ意識しながら書いたら書けない気がする)、そのせいで少し傾いだ感じになることが多かった。しかし人の名前だしな、と書き順をネットで調べ、それに従って書いたところ、ほれぼれするほどバランスの良い「飛」になった。

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気持ちはお休み


今日は一日調子が悪かった。誰かのたわいない一言に傷つき、「失礼な」と内心腹を立てて、しばらくしてからそれは相手の無神経よりも自分の立場や虫の居所に原因の大半があると思い直した。だからといって気が晴れることはなく、もやもや〜としたまま仕事をした。

胃袋もいつもと違った。空腹は感じるものの食欲が乏しく、お昼ご飯を前にしても、はやる気持ちが感じられない。いつも「お昼だお昼だ」とウキウキするのに、それがないのはとても珍しいことだった。


性格上、ちょっと抜けているところ、思い込んだら周りが見えなくなるところ、それは長らく周囲の笑いを誘うような性質のものであったのが、大人になったせいか、立場によるものか、致命的な間違いにつながりかねない危ういものと認識されることが増えた。

そういう自覚がしばしば度を越して、息苦しい。

どちらかというと、危うさも自分のバランスを構成するひとつだから、それを取り払おうとすると、根本から崩れてしまう感じがしている。些細な事柄に対する自分の感じ方まで信じられなくなってくる。

誰に何と言われても、自分のバランスに自信をもってやっていくしかないし、いけばいいのだと思う。取りこぼしたものはできる限りの誠意と責任を持って繕い、やりきったと思ったらまたスタスタ歩き出す。

落ち込むのは最大の防御だ。しゃんとして、落ち着きのある人にこそ批判や文句が言えるのだ。


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アドベンチャーワールドチーター。写真のスケッチ。(横になって寝ていて、ちょっと頭をもたげたところ)


改元のこと


今日は新元号の発表だった。「◯◯だってさ」と人の口から聞くよりも、自分の目で見たいと思い、11時25分頃から何度もヤフーのトップ画面を見に行った。その甲斐あって、その元号を目にすることができた。

そのあとはなんとなくソワソワして、実家へ「元号が発表になったね」とラインをした。(何の用でもなくそれだけを)また会社では誰かが、あぁ今日のイベントは終わってしまった、もう帰りたいなと言っていて、皆同感していた。

こうして知ってる人も知らない人も、皆が一様に同じことを気にするのが、特別な感じがする。オリンピックのときもよく似た空気になる。

どんな元号であっても、初めのうちは確実に違和感しかないだろうなどと家で話していたけど、今日昼間に「令和」と聞いて、ほう、れいわ、かぁ。ふうん。と思ったあと、次第に馴染んできて、昼休みが終わる頃には、前からこの元号になると知っていたような気すらしてきた。

改元は生きてきて二度目たけど、平成が始まった時は小さかったので、何にも覚えていない。

元号変わるってこんな感じなんだなぁ、と、後からは細かく思い出せそうにはないことを書いておいた。

これによって仕事が増えたり何かが変わったりと、私も多かれ少なかれ影響がある。しばらくは否応なく日々意識させられるだろうな。新しい元号への気持ちの純粋な反応は、今日一日だけ観察できるものかもしれない。


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まとめ買いの話・スケッチ


スーパーでは4日分の食材をまとめ買いする。一日分を大体いくらとして、×4で合計いくら、と目安を決めている。お菓子など、プラスアルファなものをカゴに入れてもその予算を下回れたとき、とても嬉しい。

(なぜ4日分かというと、家まで一人で運びきれるギリギリの量が4日分なのだ。鶏胸、鶏もも、豚、魚とメインディッシュの主役を買い、青菜を2種類くらい、あと根菜やら納豆やら、お弁当用の冷凍食品、パン、果物など)

社会人になりたての頃、「ありふれた大人になりたくない」みたいな思いがあって、イライラしたり焦ったりしていたけど、あの気持ちはいつの間に、どこへ行っちゃったのか。

いま、ただ生活を送ることに骨を折り、そのたび自分の小ささにびっくりして、反省して、考えを改めることで物事がうまく回り出すことが面白い。

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久しぶりに動物のスケッチができた。

A4の画用紙に大きく描こうと思っていたのに、中央に小さくまとめてしまった。

アドベンチャーワールドで撮ったシロオリックスの写真のスケッチ。(実際は草を食んでいる途中のようで、向かって左側に下顎が出ていたんだけど、なんだか締まらないので省きました。)

思いの丈をぶつける


料理のことをどう思ってるのか、長いこと考えてきた。好きだと断言するのはなんか違う、じゃあ嫌いかと聞かれれば「いや、好きなんだけどさ」と言いたくなる。この複雑な気持ちはいったい。

最近なんとなくわかってきたので書きたい。料理そのものより、その周辺に、譲れないことがあるのだ。

◾︎まず、食べるのが好き。ときにあさましいほど。夕方職場でお腹がすいてくると、その晩の献立を思い浮かべ、「あぁ早く自分の作った鶏肉の酒蒸しが食べたい。」とウキウキする。帰宅後その気持ちのまま台所にたち、食べて「最高だ…!」とめちゃくちゃ満足する。思うような味にならなかったときは、旦那さんがフォローしてくれても食事に対する満足度はそこまで回復しない。(ちなみに、フォローしてくれること自体は単純にとても嬉しい。)

また、たまの外食が直前に取り止めになったときなどは、自分でもひくくらいの苛立ちが湧く。「え、もうスパゲッティのお腹になってるんですけど…」と、不機嫌になるのを止められない。

◾︎ふたつめに、自炊が健康と家計を支えているという満足。使命感とも言えるけど、プレッシャーはなくて、毎日途切れることのない、静かな満足感を与えている。(ただ家計に響かない程度なら、たまに食べるジャンク寄りなご飯はむしろ楽しみだ。その時食べたいものを食べるのが好きなのだなとつくづく思う)

◾︎最後に、料理という作業が性に合っている。料理は、難しくはない。そりゃ、上を目指すならいくらでも険しい道のりになるけど、毎日のごはんを食べられる味で出すことだけ考えたら、全然難しくない。

時間をかければ確実に終わる、単純な作業を前からこなしていけばいいだけだ。ただ、世の中にはそのテの作業の得意な人と苦手な人があり、たまたまその前者だった。向いていることは、苦もなく飽きもせず、安定して続けられる。

日々台所仕事にあてられるエネルギーは相当なはずだけど、日々の慢性的な疲れと、台所仕事とを結びつけるのがピンとこない。「疲れたなぁ、休みたいなぁ」といつも思っていながら、その原因(の一つ)が料理だと実感できない。それは、料理に精神的なストレスがないからだと思う。仕事ならいくらでも疲れの原因としてあげつらえるし、文句だって出てくるけど。

料理は、完全なる個人プレー。誰かにお伺いを立てて流れが止まることがないし、納得いかない方向転換もない。自分の裁量がすべて。一日中人に囲まれて仕事をしてきたあとの、セラピーになっているのかも、とすら思う。


こういうわけで、料理の周辺に好きやこだわりがあり縁があり、安定して付き合えているのだな。料理が好きと一言で言えないのは、「料理」の一語でカバーできないほど、自分の中でのそのイメージがいろんなものを背景に含むからで、こうやって語ることが必要だったんだな。(ここまで長々と読んでくれた方、ありがとうございました。)

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ちくわとリンゴの絵。(まな板の上でいつもつまみ食い)


読書の感想と国語の思い出


吉本ばななの小説を始めてまともに読んだ。はじめの数ページで文章を気に入り、「買ってよかった」と思った。(判断がせっかち)

なんというか、本の上に描かれた光景が目の前に見えるようで、別に誰と比べるつもりもないんだけど(強いて比べるとしたら自分)、同じ日本語なのに、書き手によってこんなに正確に、景色、空の色、気温や匂いまで立ち上らせることが可能なのかと感動した。

読み手がそれを自分の中で行えるよう、何から何まで書いてしまわないのも手腕なのだと思った。その奥ゆかしさ、頭の中で結ばれる光景の懐かしさに、次第に胸がいっぱいになり、佳境でもなんでもないところで涙が出そうになった。

物語が進むうちに、各人物の人となりが自然とわかってくる。それは、必要なところで人物の心の動きを無理なく伝えているからで、繊細な仕事だと思う。その一方で、読み手の感受性に委ねる余白がちゃんとあるのがすごい。

(この、読み手が感受性を働かせて、自ら感じに行くという行為が、文学の条件だなぁ。その点で言えば村上春樹とかのほうがめっちゃ文学だけど、まぁ、その度合いはまちまちだし、人によっても判断が違うだろうな。)


小中高、通してよく本を読んだ方だと思うけど、そのわりに学校の国語で求められる読解力には自信がなかった。教科書を読み物として楽しんでいたけど、試験となると苦手意識があった。(算数が絶望的にできなかったから、相対的に得意科目っぽくなってたけど、確信を持って選んだ答えが違ったりして、分かり切らない、苦手だ、というイメージが付いて回った)

今ならもうちょい良い点取れるかも、なんて甘いことを思ったりする。また、そもそも教科書っていうのが、全体の中のほんの一部を抜き出して載せて、何を読み解けと?とはずっと思っている。

ちなみに『山月記』は教科書で出会ってよかった。あれは短くて全部載ってたんだけっけ?面白いと思って、図書館で本を探し求め、ほかの著作も合わせて読み直した。

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きょうはゆっくり本が読めて、心が耕されて、良い休養になった。