暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

こういうところが良くないよなぁ


朝いちばん、受け取った仕事のメールが、つっけんどんだったことにムッとした。すぐにできる簡単な仕事なのを、あえて後回しにしてやりたい衝動に駆られて、「いやいや、こんな簡単に怒ってどうする」と思い直し、すぐに対処した。(丁重なお礼のメールをがすぐに返されてきた。)

最近はこういう、しょうもないことですぐに腹が立つのが自分自身で目について、ダメだなぁと思っている。

腹が立ったとき、「聞いてよ、こんなことがあって」と仲の良い友達に話すところを頭の中でシュミレーションすると、言葉に落とすことによって、自然と「小っさ!」「しょうもな!」と気がつく。

ゆくゆくは、そんなことをしなくても、穏やか〜に受け流せる大きな気持ちを持ちたい。

言うべきことを言わない、失礼に眼をつぶる、ということじゃなくて、仕事にせよなんにせよ、どのみち付き合いが続く相手に、期待を失わないでいることで、いつか良い関係ができていくんじゃないかと思う。

やり方はいろいろなんだろうけど。時には雨降らせて地を固めてもいいのかもしれないけど。どうしても「一言言わねば」というときもある。ドンパチやらずに、相手の耳に入りやすい言い方で気持ちを伝える手腕も必要で、それもまた自分に足りてないなぁと感じる。

(基本的に何があっても、黙ることを選びがちで、頭の中で自分が納得させることにエネルギーをさいてしまう)


f:id:shouwano:20190204182121j:plain

実家から荷物が届いた。野菜や果物、おかずの詰め合わせ。

昨夜の献立は、荷物に入っていた煮豚と、筑前煮にした。ご飯を炊いて、煮豚に添える小松菜を茹でただけ。楽だった。


のし袋と辞書


久しぶりにのし袋に名前を書く。金額を大字(だいじ)で書こうとして、念のためネットで漢字を調べた。よし、書くぞ、と思って筆ペンを握ったけど、なんだかやっぱりまだ不安で、席を立って本棚から国語辞典を引っ張り出してきた。

それで該当する数字を調べて、うん、大丈夫、合ってる。そうやって確認して、やっとペン先を紙につけた。

フォーマルな場に行くとき、さまざまなマナーを必ずネットで調べる。たくさんの便利なページが出てきて、手取り足取り教えてくれて心強い。だけど、厳密にいうとどんな情報も確実性に欠けるので、当日を迎えるまで不安が拭えない。そういう不文律は合理性より慣習の力が強く働いているだけ、自身の頭で「常識に従って」考えるには限界があり、だからこそ間違いないことを知りたいのに、出典が信頼できない。

そこへ、この国語辞典の安心感。最終的に辞書に助けられたのがおかしくなった。もちろんネットでも調べて、辞書も見て、とソースがふたつあったから安心感が増したんだけど、決定打は辞書のほうだった。

引越しで本を処分したとき、手放さなくてよかった。ただ、それはこうやって役に立つと思ったからではなくて、「辞書を捨てるなんて」という抵抗感からだった。

辞書は、用がなくてもたまに手にとってペラペラ見たりすると面白いものだけど、正直言って、それはむしろ教養の世界から離れたくないという思いの象徴、なんでも効率が重視される生活を送る中での意地、お守りのような存在になっていた気がする。こうして生活のなかで自然に辞書を求める、辞書にすがることが久しぶりで、嬉しくなった。


*冠婚葬祭については、地域差なんかも大いにあるので、本当に困ったときは親などの年長者に確認する。


f:id:shouwano:20190201191025j:plain

*小学生の頃、新しい漢字を習うと、その漢字を使った熟語の意味を辞書で調べるという宿題が出た。目的の熟語が見つからず焦れていて、親から「だんだん早くひけるようになるよ」と言われたなぁ。


卓上カレンダーと夢


台所にちっちゃな卓上カレンダーを置いてみた。先月も次月も載っていない、ほんとにシンプルなもの。目先の予定を書き入れてみて、あぁこれは良いなと思った。

私は料理なら料理、掃除なら掃除、と目の前の仕事しか見えなくなることが多いのを、ふと顔を上げた時にカレンダーが目に入り、「そうそう、これやらなきゃね」と思い直す。その場で用事に手をつけるわけではないけど、なんとなく安心するのである。

そして、用事が終わったら、「何月何日完了(´ε` )」とイラスト付きで書き込んだりしている。なんだか楽しい。


話は変わるのだけど、カレンダーといえば、いつか自分の絵を挿絵にした卓上カレンダーをこしらえたい。

一年を共にするカレンダーである。それなりのものでないと使いたいとは思ってもらえないと思うと、どんなのにしようか、楽しくも悩ましい。(はなから販売が目的というのではないけど、どうせならそういう心意気でこしらえたい。)

今年中に、とは言わないけど、近いうちに実現したい夢のひとつ。


f:id:shouwano:20190131225130j:plain

夫婦喧嘩をして、その少し後にこの絵を描いた。思うところがあっての絵なのだけど、嵐が過ぎたいま、そのときの気持ちをわざわざ掘り起こす気にならないので、絵だけ。(説明しないと伝わらないだろうなぁ。まぁいいや。一応言っておくと、別にみかんの投げ合いをしたとかそういうことではありません)


弱って思うこといろいろ


重めの風邪をひいた。ピークは過ぎたけど、いまも微熱があり、喉が痛く、鼻もズビズビいっている。

毎日7時間の睡眠を心がけて、朝昼晩きちんと食べて、みかんも昼と夜に一つずつは食べていたのにな。

まあ疲れは知らずに溜まるし、どうしても無理はするときはするし、隙を作らないのは難しい。ここ何年も本格的な風邪にかかってこなかったのは、たまたまだったのかなぁ。

今日から台所仕事はぼちぼち再開した。早々に食欲は復活していたけど、欲するままに食べるのは弱った消化器官に良くなさそうなので、りんごやヨーグルト、お粥やおうどんを恐る恐る食べていた。

こうした判断を朦朧とした頭で行い、またそれを自分で用意しないといけないところがしんどいなぁと思った。

いい歳をして、という感じだけど、弱って臥せっていると、子供の頃だとすりりんごとか、アイスとか、母が様子を見ていろいろ出してくれたなぁと思い出す。

ちなみに夫婦ふたりで同様に体調を崩してしまったので、旦那さんに看病は求められなかった。

f:id:shouwano:20190126134234j:plain

f:id:shouwano:20190126134315j:plain

f:id:shouwano:20190126134353j:plain

f:id:shouwano:20190126134414j:plain

f:id:shouwano:20190126134432j:plain

*この絵たちは、体調を崩す前に描いた。みかんはできれば箱買いがいい。残り何個、て気にしないで、食卓にも台所にも常に2,3個転がしておいて、気が向いたときにいつでも食べれるのがいい。


あな嬉し


仕事で頼まれたものをその人のところへ送ったら、丁重なお礼のメールが来た。

たいてい「お願いします」「わかりました、送ります」「ありがとう」のやりとりで終わるところが、「きょう届きました、どうもありがとう」とわざわざ送ってきてくれた。なにやら向こうの都合で、とても良いタイミングに着いたらしかった。

感謝されるのはそれはそれは嬉しいものだ、と思い出した。それだけで疲れが飛んで、元気が出るようだった。また、喜びが心の中に染み渡る速さにティッシュが水を吸う様子を連想し、気持ちが荒んでるのかな、とも思った。

肯定や感謝の言葉をかけられなくても平気でいたいけど、こうしてたまに人から褒められたときに素直に嬉しくなるのは、しょうがないな。


今週はずっと青空文庫で小説を読みながら通勤していた。繊細ながら力強く、美しい日本語に浸っていたせいか、久しぶりに打った自分の文章が拙く思えてしかたない。

言葉は有限というけど、思えば巧みな人は巧みに書くし、当たり前ながら、技術の余地が大きいんだなぁと思った。


f:id:shouwano:20190119003107j:plain


お腹におつかれさま


年末年始はいつものことながらよく食べた。料理仕事から解放され、各所でもてなしを受け、とくに実家では羽を伸ばしてエネルギーを蓄えた。ただそれに並行して胃腸を酷使した。いつもと違う時間に普段食べないものを普段以上の量食べ、夜更かしをすれば翌日がゆっくり始まり、三食が二食になったりした。おまけに食間、食後といろんなお菓子を食べていた。(年末年始は、なんで一つの家にあんなにいろんなお菓子が集うんだろう。あったら食べてしまう。)

こうして書いてみると、だいぶ無茶をしたと思う。冬の長期休暇、気持ちの上ではのびのびとして過ごしているけど、胃腸にとっては一年の正念場かもしれない。

結果、年始は消化能力が弱っている。トイレにこもるようなことはないにせよ、胃と腸が疲れ気味である。ちょっと脂っこいもの、ジャンクなものに手を出すと具合が悪くなる。

今年は仕事始めの月曜日に腹痛に悩まされただけだったのでよかった。火曜日からは休みで蓄えた元気が効いてきて、久しぶりの5連勤を軽やかに乗り切った。


変則的な食生活が内臓に堪え始めたのはここ数年である。

もともと食べるのは大好きで、多少の無理はへっちゃらだった。(というか、無理とも思っていなかった)

年齢的なものと思っているけど、何か悪い病気の兆候なのでは、と腹痛の最中にふっと不安になったりもする。


f:id:shouwano:20190112004820j:plain

実家に帰ったとき食卓で描いたもの。ランチョンマットの上、料理本と、手土産のお菓子の箱。東京駅のホームで、新幹線乗車前の短い時間で選んだけど当たりだった。また買いたい。


新幹線で思い出す


地元への帰省はいつも東京から新幹線に乗る。飛行機の方がずっと早く着くけど、発着する空港がへき地にあって不便に感じるのと、新幹線に乗っているのんびりした時間が好きだからだ。

一度、降りる駅で降り損ねて、次の駅まで行ってしまったことがある。両親が迎えに来てくれていた時だったので、すぐに連絡をして、一駅戻る間、30分ほどだったと思うけど、待っていてもらった。隣駅がそんな短時間で戻れる間隔で本当に良かった。

乗り過ごしたいきさつとして語るべきことはなくて、純粋な勘違いである。なぜか頑なに、自分が降りるべき駅はもう一つ先と思い込んでいた。本を読んでいたのでもなく居眠りでもない。もう10年来行き来して乗り慣れた新幹線で、自分でもまさかという感じだった。

こういう、思い込んだら視野が狭くなり突き進むところがある。もう身体の一部みたいなもので矯正は難しい。それを自覚して対処のしかたを自分で考えていけるのが救いで、必要なことだと思う。(子供だった時代は、自分が転ぶ理由がわからないのが辛かったんだなぁ、と思う。)


f:id:shouwano:20190104173010j:plain

最後になりましたが、今年もどうぞよろしくお願いします。