玉ねぎ、じゃがいもなど、まとまった個数買えて日持ちがする野菜を、使おうと思ったその時に切らしていると気がついて、あぁ…となるのを、玉ねぎトラップ、じゃがいもトラップなどと呼んでいます。
今夜はにんじんトラップでした。
レシピににんじん1/2と書いてあるところ、確かにんじんあったよなと思いつつ野菜室を開けてみたら、前回なんでそれだけ残した、と思うくらいちょっと(1/6くらい)しか残ってなかった。
少し前に家族で野菜収穫体験に参加して、白菜やかぶ、ブロッコリーなど冬野菜をたんまり持ち帰ってきた。しかもその時点ではにんじん、玉ねぎなどが買い置きがあったので、もうしばらく野菜買わなくていいななんて話をしていたら、本当に、今週は「今野菜足りないのなかったかな、何か買い足すものは」と気にする習慣が抜け落ちてしまっていた。
にんじんは特に、和洋中問わずスープに使うし、炒め物にも煮物にも、主菜副菜偏りなく登場するし、もういつでも台所にあってほしい野菜だと思う。
そのわりに(それがゆえに?)そんなに丁重に扱っていないというか、ありがたく思いながら接していない気がするな。
子育てについて、大変なこと、面白いこと、かわいかったことなど、本当にたくさんの人が我が子に関して発信しているのを、毎日のようにスマホ上で見かける。
それでふと思うのは、私の母などは私の幼い頃、そういういろんな思いや感想を、その当時だれかに、またはどこかに対して、発散していたのだろうか。
私はそれを知らないから、感じとしては、ただ全部を味わい、飲み込み、あらゆる段階に取り組んでこられたような印象がある。
私はまだ子育ての序盤だけど、それでもさまざまな経験を通して、あぁうちのお母さんもこんなこと思ったのかな、面白かったのかな、と、経験を通して共感していくのが、なんというか、奥ゆかしい。
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