定期的にイライラしやすい日がやってくる。そんな日に、「イライラしました」という内容のブログを書いたことが何度かある。
今日も、そんな日にとくにある他人の言動に触れて気持ちが乱れた、そのことを書こうと思う。
そんなの書いてどうするの、という感じかもしれないけど、自分でもひくくらい攻撃的な気持ちになるのを、分析して理解してみたいのである。
(自分でよくわかってコントロールしないと、家族など周りの人にやつあたりしてしまうし)
その日は人の話し声、後ろを行き来する人の気配など、いろんなものが総出で神経を刺激してきた。それを隠してないといけない、と思うこともまた自分を疲れさせた。
くたくたになったので、晩御飯は手抜きをさせてもらった。
(ほんとはハンバーグが食べたいけど…今日はとても無理だ…納豆とご飯にしよう…)
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苦手なことを人にやってもらうのが得意な人がいる。きっぱりと正面から頼むのではなくて、話をしながら、自身は決定打を打たず、相手が助け船を出すのを待っている。見過ごせないのは、その人が、目上のその相手が自分のこねる駄々を必ずや許容してくれると確信していることである。で、後輩から頼られた相手のほうもまんざらでもないので、結局なにも問題はないのである。
正当な怒りの根拠が見当たらないことにまた、もやもや。
不思議なのは、
・私自身が彼らから何か直接の被害を受けるわけじゃないのに、ということ
・日頃は大して気にならないのに、そのやりとりがたまにものすごく気に触る ということ
単純に言うと、月のものの関係でイライラしやすい時にサンドバッグ的に取り上げているだけなんだろうなぁと思う。
ただ、サンドバッグとして選ばれるのには、やっぱり自分の許せない、見過ごせない何かがそこにあるから。
はっきり言ってしまうと、私がしている苦労をその人がためらいもなくかわしているように見えて、自分がバカみたいに見えて、やりきれないのである。
嫌なことも仕事のうちだと思ってたのは、それを飲むことにも価値があると思ってたのは、恥をかくのも皆通る道だと思ってたのは、間違いだったのかな、と。
自分の問答にまじめに返すとしたら、進んで苦手に向かうことにもちろん意味はあるけれど、そこで他人を使うこともまた一つの方法なんだと思う。そのためのスキルだって簡単には手に入らないし、天性の愛嬌でこなせるならそれは才能と言っていい。
仕事をする中でみんなそれぞれ方針があって、誰かとの違いがまざまざと見えたときに、つい感情が動いてしまう。これは自然なことなのかもしれない。
自分の中に、自分の方針が根を張っている証拠と言えるのかもしれない。
悪口を言いたいわけではなかった。(毒のある内容になってしまったけど)どうしても気持ちが乱されるその理由を自分でわかっておきたかった。
こういう気持ちの揺れは、歳を経れば少なくなるものかな。あとから振り返ればいまの私の年齢はまだまだ若いのだろうけど。いい歳をして幼い拙い感情を抱くのだな、という少し情けない気持ちが今の実感である。