暮らしの中で思うこと

絵中心のブログ。簡単なイラストや、たまに動物のスケッチを描いています。

思いの丈をぶつける


料理のことをどう思ってるのか、長いこと考えてきた。好きだと断言するのはなんか違う、じゃあ嫌いかと聞かれれば「いや、好きなんだけどさ」と言いたくなる。この複雑な気持ちはいったい。

最近なんとなくわかってきたので書きたい。料理そのものより、その周辺に、譲れないことがあるのだ。

◾︎まず、食べるのが好き。ときにあさましいほど。夕方職場でお腹がすいてくると、その晩の献立を思い浮かべ、「あぁ早く自分の作った鶏肉の酒蒸しが食べたい。」とウキウキする。帰宅後その気持ちのまま台所にたち、食べて「最高だ…!」とめちゃくちゃ満足する。思うような味にならなかったときは、旦那さんがフォローしてくれても食事に対する満足度はそこまで回復しない。(ちなみに、フォローしてくれること自体は単純にとても嬉しい。)

また、たまの外食が直前に取り止めになったときなどは、自分でもひくくらいの苛立ちが湧く。「え、もうスパゲッティのお腹になってるんですけど…」と、不機嫌になるのを止められない。

◾︎ふたつめに、自炊が健康と家計を支えているという満足。使命感とも言えるけど、プレッシャーはなくて、毎日途切れることのない、静かな満足感を与えている。(ただ家計に響かない程度なら、たまに食べるジャンク寄りなご飯はむしろ楽しみだ。その時食べたいものを食べるのが好きなのだなとつくづく思う)

◾︎最後に、料理という作業が性に合っている。料理は、難しくはない。そりゃ、上を目指すならいくらでも険しい道のりになるけど、毎日のごはんを食べられる味で出すことだけ考えたら、全然難しくない。

時間をかければ確実に終わる、単純な作業を前からこなしていけばいいだけだ。ただ、世の中にはそのテの作業の得意な人と苦手な人があり、たまたまその前者だった。向いていることは、苦もなく飽きもせず、安定して続けられる。

日々台所仕事にあてられるエネルギーは相当なはずだけど、日々の慢性的な疲れと、台所仕事とを結びつけるのがピンとこない。「疲れたなぁ、休みたいなぁ」といつも思っていながら、その原因(の一つ)が料理だと実感できない。それは、料理に精神的なストレスがないからだと思う。仕事ならいくらでも疲れの原因としてあげつらえるし、文句だって出てくるけど。

料理は、完全なる個人プレー。誰かにお伺いを立てて流れが止まることがないし、納得いかない方向転換もない。自分の裁量がすべて。一日中人に囲まれて仕事をしてきたあとの、セラピーになっているのかも、とすら思う。


こういうわけで、料理の周辺に好きやこだわりがあり縁があり、安定して付き合えているのだな。料理が好きと一言で言えないのは、「料理」の一語でカバーできないほど、自分の中でのそのイメージがいろんなものを背景に含むからで、こうやって語ることが必要だったんだな。(ここまで長々と読んでくれた方、ありがとうございました。)

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ちくわとリンゴの絵。(まな板の上でいつもつまみ食い)


読書の感想と国語の思い出


吉本ばななの小説を始めてまともに読んだ。はじめの数ページで文章を気に入り、「買ってよかった」と思った。(判断がせっかち)

なんというか、本の上に描かれた光景が目の前に見えるようで、別に誰と比べるつもりもないんだけど(強いて比べるとしたら自分)、同じ日本語なのに、書き手によってこんなに正確に、景色、空の色、気温や匂いまで立ち上らせることが可能なのかと感動した。

読み手がそれを自分の中で行えるよう、何から何まで書いてしまわないのも手腕なのだと思った。その奥ゆかしさ、頭の中で結ばれる光景の懐かしさに、次第に胸がいっぱいになり、佳境でもなんでもないところで涙が出そうになった。

物語が進むうちに、各人物の人となりが自然とわかってくる。それは、必要なところで人物の心の動きを無理なく伝えているからで、繊細な仕事だと思う。その一方で、読み手の感受性に委ねる余白がちゃんとあるのがすごい。

(この、読み手が感受性を働かせて、自ら感じに行くという行為が、文学の条件だなぁ。その点で言えば村上春樹とかのほうがめっちゃ文学だけど、まぁ、その度合いはまちまちだし、人によっても判断が違うだろうな。)


小中高、通してよく本を読んだ方だと思うけど、そのわりに学校の国語で求められる読解力には自信がなかった。教科書を読み物として楽しんでいたけど、試験となると苦手意識があった。(算数が絶望的にできなかったから、相対的に得意科目っぽくなってたけど、確信を持って選んだ答えが違ったりして、分かり切らない、苦手だ、というイメージが付いて回った)

今ならもうちょい良い点取れるかも、なんて甘いことを思ったりする。また、そもそも教科書っていうのが、全体の中のほんの一部を抜き出して載せて、何を読み解けと?とはずっと思っている。

ちなみに『山月記』は教科書で出会ってよかった。あれは短くて全部載ってたんだけっけ?面白いと思って、図書館で本を探し求め、ほかの著作も合わせて読み直した。

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きょうはゆっくり本が読めて、心が耕されて、良い休養になった。


上手にお付き合い


年齢的なものかわからないけど、体調にちょっとした変化があった。少し考えて、甘いものを控えてみようと思った。

考えてみたら、お菓子を食べない日がない。平日は昼間、夜と大抵何かしらつまんでいる。少なくとも空きっ腹に入れるのはやめよう。そう思ったこともあったけど(糖分をもろに吸収してしまう気がして)、気がつけば晩御飯を作りながら口に何か入れている。

毎日食べるのは控えて、週末だけとか、メリハリをつけたい。でもピシッとしたルールを作るとプレッシャーになるので、とりあえずなんとなく、例えばコンビニで買おうか迷ったときにやめられるようならやめる、食べるにしても一個だけにする、とか。そういう感じでいきたい。

甘いものをセーブする、そう決めたら、何か代わりのものを、そう思ってkindleで本を購入した。よく読む作家の新作が出ていたのを見つけ、迷わずタップしていた。

たぶん、甘いものじゃなくていいのだ。たまにファーストフード店でハンバーガーを食べるのでも同じ部分が満たされるのを感じることがある。ささやかな非日常感、贅沢感があれば。だから本でも代替可能なのだ。

(糖質には中毒性があるらしいし、元々甘党だし、体が欲してる部分もあると思うけど)

ここのところは穏やかな気持ちで、規則的な生活を送っている。そんな中でもやっぱり自然と疲れ、ストレスが溜まっていき、それを緩和するためのお菓子、本なんだと思う。

そうやって気をそらすことを0にしようとするのは現実的ではない。行き過ぎないよう気をつけながら、付き合っていったらいい。

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(チョコチップクッキー描いたら食べたくなってきた…)


絵を描きたい、ブログを書きたいとは常に思っている。でも実際にやるのは時間と体力が許すときに限られる。それで普段からイライラすることもない。良い距離で付き合えているということかな。


夢を見るのは癒し


きのうは昼寝をした。30分で起きるつもりで、寝入るまでの時間を込みで35分のタイマーをセットして布団に入ったけど、タイマーを止めて、さらにもう30分寝てしまった。

脈絡のない変な夢を見て、起きたら元気になっていた。

夢を見るのが楽しい。自分の頭の中にあるものが、誰の批評もNGも受けず、なんでも、好きな順序で出てきて野放し。それが心にとって、なんだかとても良い感じがする。

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(とくに昼寝は睡眠が浅いのか、たくさん夢を見る)


おかげできょうは一日元気だった。必要なところにだけ注意を注ぎ、いつもより明るく仕事ができた。

疲れているときは、疲れているくせに、些細なことばかりに注意がいき、要らない心配、不安を抱えてしまう。一人で落ち込んだりヒネくれたりする。

あれはなんでだろうなぁ。クタクタになると全体が見渡せなくなり、主幹が捉えられず、やたら枝葉末節にばかり目がいく。

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ストッキング・梅の花


ここ何日か、立て続けにストッキングのつま先に穴が空いた。

冬は職場での服装はスカートよりパンツ(下着じゃなくてズボンの意)が多くて、ふくらはぎの伝染にビクビクすることはない。ストッキングの指先に穴が空いたところで靴の中の話だから人目は気にならないけど、「あぁまたストッキングが減ってゆく…」と焦る。きのうはお店に寄って二足入りのストッキングを買った。一安心。

ここ何年か、ストッキングを長持ちさせようとして、大きめのサイズを選ぶ、つま先を少し余らして履くなどの工夫をして、一昔前に比べたら買い足す頻度を抑えられていた。それが、申し合わせたようにみんな一斉に穴が空き始めたのだった。不思議な気がしたけど、たぶん同時期に買ったもののガタがきたんだろうな。

たまーにスカートで出勤するときは、今だと厚めの黒いタイツを合わせる。で、その下には密かにストッキングを重ね履きしている。一枚多いだけで結構あったかいので、欠かせない。

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(夜にお風呂場で脱ぐとき、ストッキングとタイツの間で静電気が起きるのは面倒だけど…)


通勤の電車の窓から、あれは梅かな?と思う花が咲いているのが見える。遠目でよく分からないけど、あまり背の高くない木で、濃いピンクの花を、伸ばした枝の先々につけている。

一ヶ月前にはなかった気がする。この時期だからたぶん梅だと思う。春が近いんだなぁと、見かけるたびにほっこりしている。

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傘のこと


きのうは傘を持って家を出た。朝バタバタと支度をしているとき、テレビから「西日本を中心に広い範囲で雨、関東でも午後から降り出すでしょう」と聞こえてきて、え、きょうは雨かいな、と振り返ると画面には、日本地図の上に雨雲が大きく広がっている図が映され、「きょうは全国的に雨」という印象をもった。なので折りたたみでなく大きな傘にしたんだけど、家を出て歩きながら見回せば、みんなほとんど傘を持っていない。

えぇ〜。きょうは雨って言ってたのに、みんなどうしたん?大きな傘を提げている自分が、大げさな感じがして恥ずかしい。最寄り駅に着いてから一人、また一人、と傘を持っている人を見つけ、ホッとしながら会社に向かった。(たぶん全体で、傘を持った人は1/4にも満たなかったと思う)

まぁ、家出るときに降ってなければ折りたたみ、なのかなぁ。私も「降るかどうかわからない、降っても小雨程度か」というときは折りたたみにする。降らなかったら大きな傘は荷物でしかない。

ただ、折りたたみは、その都度畳まないといけないのが手間なのだ。

折りたたみ傘をたたむのは苦ではないけど(本来の折りジワを見つけながら、余計なシワのつかぬよう、丁寧にたたむのがちょっと楽しい)、それを改札前で人の波を妨げないようにパパパッとやらなきゃいけないのがいつもストレスだ。立ち止まって人の邪魔にならないように柱の陰なんかでやることもあるけど、濡れてるし、この後電車乗って着いて駅を出たらまた使うかもしれないしで、そんなに丁寧にやる気にならない。(几帳面なのかズボラなのか)


傘といえば、小学一年生のとき、雨の日に下校しようとしたら、朝持ってきたはずの自分の傘が傘立てに無くて、しばらくそこでウロウロしていたら先生が通りかかって、結局担任の先生に車で送ってもらったということがあった。

真相は、同じ傘を持った子がクラスにいて、間違って私の傘を持ってっちゃったということだった。たぶん同じ柄の傘が傘立てに残っていたけど、自分のじゃないから使うわけにもいかず、かといって職員室に行って助けを求めることも思いつかなくて、ただ途方にくれて、心細い思いでそこにいたのだった。


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(大きい傘を持って出たからには、降ってほしいと思ってしまう。土砂降りとかじゃなくても、パラパラ程度でも。)


チョコ祭り


バレンタインデー。会社では何人かからチョコをもらった。とりあえず一通り開けて、一つずつつまんだ。いま、食卓のテーブルの上に小さな可愛らしい箱がいくつか置いてある。

ちょくちょく台所から振り返って、その光景にホッコリする。一度にたくさんは入らなくなったけど、やっぱり甘いものは好きだ。

一昨日行ったデパートのお菓子売り場では、圧倒的にチョコレートが幅を利かせていた。

焼き菓子もおせんべいも頑張っていたけど、チョコや、チョコレートをあしらったお菓子に人の波は動いていた。

バレンタイン直前、こんなギリギリに買いに行く人いるかな、みんな大体連休中に買い物しただろうなぁとデパートへ足を向けたけど、さすが都心、ものすごい混雑だった。満員電車のような人出に「おうおうおう、すげえなこりゃ」という初老の男性の声が頭上で響き、みんな同じ気持ちでございます、と心の中で相づちをうった。

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こういうチョコは、どれから食べようか迷う。これはミルクチョコ、これはキャラメルの味がする、とか違いはわかるけど、結局どれもおいしい。